練馬留学5、小学2年生の兄弟子の稽古場にお邪魔して考えたこと

この度、坂東冨起子先生の日舞教室の紹介動画を作ることになり、何名か先輩方の稽古場にお邪魔させていただいた。その中には小学2年生のM先輩がいた。その時に考えたことを綴ってみたい。きっと昨今の「習い事」の価値観とは違う発見があるはずである。

M先輩とNちゃん

M先輩は、小学校2年生ながら日舞を習い始めて3年になるというから、入門したてのボクからすれば立派な兄弟子だ。去年は坂東先生主宰の「ふきの会20周年公演」という発表会で国立劇場小劇場の舞台にも立っている。この年齢でそんな晴れやかな経歴を持っているので舞台度胸はなかなかのものだと思うのだが、この日の稽古では少し緊張していたらしい。見知らぬ男がカメラを構えてやってきたことも理由の一つだが、もう一人見学者がいたことがM先輩を緊張させていた。見学者Nちゃんの存在である。

Nちゃんは5歳の女の子だった。すでに体操か何かを習っていて普段は元気いっぱいだそうだが、畳の大広間、着物姿の人たち、大きな座布団、初めての環境にNちゃんも少し緊張しているようだった。

しかし、この二人は稽古が終わる頃には追いかけっこをするほど仲良くなり、NちゃんはM先輩の振り付けをすっかり覚え「こう!」と何度もやって見せた。二人のテンションは相乗効果で止まることなく盛り上がっていき、やがてお母さんに怒られるに到る。しかしこれはすごいことだ。初対面の二人がこれだけの短時間で打ち解けられたこと。Nちゃんの中に表現欲が自然と湧き上がったこと。そしてそのことをみんなで笑って受け止められたこと。

これが表現ワークショップなら大成功と言えよう。それを日舞教室はいとも簡単にやってのけた。何がこの成功を支えたのか、一つ一つ振り返って考えてみたい。その中に子どもにとっての日舞の魅力が隠れているだろうし、大人にとっての魅力も隠れているだろう。もしかしたら表現活動そのものの魅力も隠れているかも知れない。

シュッ!

最初にNちゃんが笑ったのは、「シュッ!」というM先輩の掛け声だったと思う。しかしこの掛け声はM先輩が今習っている振り付けの中にあるものではなく、踊っているうちに自然と口に出たM先輩のオリジナルである。

ちなみにM先輩がこの日習っていたのは『かちかち山』だった。「カッチカチ〜」と火を付ける兎になったかと思うと、くるりと一回りしただけで火をつけられた狸になるというユニークな演目だ。

正式名は『玉兎(たまうさぎ)』。歌舞伎舞踊で、1820年に坂東流家元の三世坂東三津五郎が踊ったのが最初。(世界大百科事典より)

この踊りの中で手拭いをさっと投げてクルクルとねじり、頭に締めるという場面がある。この手拭いをさっと投げる時にM先輩は思わず「シュッ!」と口走ってしまったのである。いわば自前の効果音だが、こういう音はどういう時に出てくるか。日常生活のふとした時に出てくる。例えばボクの場合は、近所の踏切で遮断機が鳴り始めると妙に冒険心をくすぐられて自転車で滑り込みたくなる。一応お断りをしておくと、この踏切はマッチ箱のような1両編成の小さな路面電車用のもので、大事故に繋がるような代物ではないのでご安心を。
とにかく、そこに滑り込む時にボクも「シュッ!」と呟やいていたことに気がついた。この掛け声で一気に加速したつもりになっていたのである。もちろん掛け声は、「シュッ!」でなくともなんだっていいのだが、現実の世界に小さな物語を持ち込もうとする時に、我々はしばしばこのような自前の効果音を使う。緊張していたM先輩も手拭いを投げる瞬間には、何かしらの物語の中に入り込んでいたのだろう。だから「シュッ!」と呟いた。この遊び心にNちゃんが反応したことで、場の緊張は解け、M先輩がそのあと間違えて手拭いをクルクルと手にこんがらがせてしまうと、Nちゃんは「あらら〜?」と笑ったのである。

ゲッツ!

次にNちゃんが笑ったのは、M先輩が兎になって狸の背中に火をつけ、その火を確認する振りの時だ。音で言うと、 

カッチカチ〜(唄)
チョン、チリトコトン(三味線)

の「チリ」の部分になるが、この時に振りでは右手で狸を指差す。しかし、M先輩はなぜか左手も一緒に指してしまうのである。

「あなたそれじゃ『ゲッツ!』になっちゃうから」

坂東先生がそう言うと、M先輩もNちゃんも笑ったが二人はダンディ坂野を知っているのか。それは定かではないがとにかくM先輩の体には「ゲッツ!」が染み込んでいて、何度やっても両手で指差してしまう。これがなかなか直らない。この時の先生の一言が印象的だった。

「頭で考えても出来ないから、これはもう体に入れておく」

この言葉、文字で読むと厳しく感じられるかも知れないが、その場にいたボクの印象からすると逆で、「体はしばらく間違えるけど、やっているうちに出来るようになるから気にしないでやっていこう」と、このように優しく聞こえた。事実M先輩はこのあと何度も「ゲッツ!」を連発し、その都度先生が正しい形に修正するということが続いたのだが、その度にNちゃんはゲラゲラ笑った。笑われたM先輩の方もどこか嬉しそうだった。先生も笑っている。二人のお母さんも笑っている。ボクも笑った。なんとも朗らかな笑いだった。

ボクはこの時に「人の間違いを笑ってはいけない」という教えは嘘だな、と思った。いや、嘘ではないのだが大きな例外がある。それが体の失敗なら生理に任せて大いに笑っていい。その証拠にNちゃんは座布団からはみ出すくらい笑い転げながら、そのままボクの顔を見たのである。

目が合った!

ボクはこの「顔を見る」という行為について、ここ数年ずっと考えてきた。
最初は南アフリカで観たベイビーシアター作品で、赤ちゃんと目が合ったことがきっかけだったのだが(その時の記事)、今では

人間だけが類人猿の中で唯一白目を大きくして瞳孔のありかを相手に示し自分が今何を見ているかということを伝えることで共感力を育んだ

京都大学山極寿一(元の研究は幸島司郎さんとのこと)

という知見に触れ、子どもの健やかな発育の中で「人と目が合う」という行為は欠かせない経験だと確信するに至っている。
思い返せば、劇を観ている時の子ども達は、ことあるごとに隣の友達や後ろのお母さんの顔を見る。これは劇を観ていて心が動いた時のことを共感したいがための行動だが、子ども達がこういうことを誰に習うわけでもなくごく自然に行うということは、この行為が人間の深い学びのシステムに根ざしていることに他ならない。

この学びのシステムが日舞教室で作動した。

「ゲッツ!」がおもしろかったNちゃんは、この気持ちを分かち合いたいと隣のお母さんの顔を見た。そして後ろでもう一人笑っているボクの存在に気がつき、さらにボクの顔も見た。こうして共感を広げた笑いは大きく膨らみ、今度はもう一度M先輩を包み込んだ。M先輩は、この朗らかな笑いの中心に自分がいることを本能で嗅ぎ取っていただろう。だから、「馬鹿にされている」とは思わなかった。むしろ嬉しくて踊りはノった。こうして稽古場はあっという間に一つになったのだ。

この時、ボクは「日舞っていい習い事だなあ」と思ったのだが、どうやら世の中の多くの人にとって、これは習い事のメリットには勘定されていないようなのだ。ここで試しに「日舞 習い事 子ども」というワードでGoogle検索をかけてみた。

日本舞踊の習い事のメリットは?

  1. 礼儀作法が身につく
  2. 着物の着付けができるようになる
  3. 日本の伝統文化が学べる
  4. 歳をとっても続けられる

以上が、あるサイトに書かれていた子どもが日本舞踊を習う際のメリットだ。どれもおそらく間違いではないのだろうが、ボクが実際に稽古場で感じた日舞の魅力に比べると、どれも窮屈な印象を受けてしまう。

例えば、1の「礼儀作法が身につく」というメリットを期待して稽古場に来た場合、座布団から転げ落ちるほど笑ってしまったNちゃんの態度は注意すべき対象になるだろう。「ちゃんと座って」「人の失敗は笑いません!」なんて言葉が聞こえてきそうだ。

また、あるサイトには「大人との正しい付き合い方を学び、正しい敬語が使えるようになります」ともあった。それに対してボクが面白いと思ったのは坂東先生の言葉だ。

「一緒に舞台に立っちゃだめね。一緒に舞台に立ったらもう共演者でしょ。同列になっちゃう。
『〇〇ちゃん』って呼んだら『な〜に?』だって。(笑)

一応ここで断っておかなくてはならないのは、先生は某テレビ番組の所作指導を担当する程この道のエキスパートなのである。
しかし、先生は〇〇ちゃんのタメ口は黙認した。それはおそらく、先生にとって今〇〇ちゃんに伝えるべきは「正しい言葉使い」ではなく、一緒に舞台に立つ喜びであり、その伝え方も言葉ではなく、一緒に踊る中で示されようとしたのではないか。
ボクは先ほどの先生の言葉を聞いて背筋が伸びる思いがしたが、おそらく〇〇ちゃんも10年が過ぎ20年が過ぎ、あるいは30年が過ぎて後に、初めて先生の伝えようとしていた本当の礼儀作法に気がつくことだろう。
子どもなんだからそれでいい。むしろ小さな子どもが流暢に敬語を使いこなしている方が気持ちが悪い。子どもはもっと体いっぱい世界を掴んでいくべきだ。それをメリット・デメリットなどの損得勘定で親が見積もりを立ててしまっては、日本舞踊というダイナミックな学びのシステムが持っている可能性を最初から矮小化してしまうことにならないか。

少し感情的になってしまった。ボクは子どもを型にはめ込んでいく教育のあり方や、今この瞬間を精一杯生きている子どもの時間を将来への投資に回させようとする大人のせせこましい考え方にどうにも拒絶反応を示してしまうのである。だからM先輩とNちゃんが日舞を通じてのびのび楽しそうにしていることが心から嬉しかったし、この中に現代社会が見失ってしまった大切なものが隠されていると感じてこの文章を綴っている。もう少し続けたい。

感じて踊る

M先輩の稽古を見ていてもう一つ不思議だったのは以下の部分である。
先ほどの、

カッチカチ〜(唄)
チョン、チリトコトン(三味線)

の「チリ」の部分でM先輩は「ゲッツ!」を出さないように必死に堪えていた。しかしその分、振りが遅れる。にもかかわらず、そのあとの「トコトン」では帳尻を合わせて足がしっかり先生と揃っていたのである。
最初は見過ごしていたが、映像編集でこの部分を繰り返し見る中で、「どうしてそれが可能なのか」と気になり始め、その時、坂東流十代目家元であった坂東三津五郎師の文章を思い出した。以下は、「日本舞踊の稽古でなぜ鏡を使わないか?」 という問いに対する三津五郎師の回答である。

鏡という要素が入ると、頭で考えてしまって、身体そのものが覚えなくなってしまうのだと思います。

坂東三津五郎『踊りの愉しみ』長谷部浩 編

一般的に考えて合理性を追い求めれば、自分の体の動きを鏡でチェックしながら稽古をした方が覚えが早そうなものである。しかし、坂東流では鏡を見ている時間は「頭で考えている時間」として禁じている。三津五郎師の考えでは、日本舞踊を習得するのに頭を使うことは、合理的でないのだろう。

これをM先輩に置き換えて考えてみよう。

M先輩は「ゲッツ!」を矯正しようとしている時は、頭が指令を出しているようで確かに動きに精彩を欠いた。しかし「トコトン」の時はキレが良く、ここは体そのものが指令を出しているように感じられるのである。
この振りはもう一度繰り返される。するとM先輩は再び頭が動いて振りから遅れる。しかしやはりまた「トコトン」では体が帳尻を合わせてくるのである。
どうしてこんなことが可能なのか?
ボクは編集しながら「これは先生が横で一緒に踊ってくれているからではないか?」と考え始めた。マンツーマンレッスンは、隣にいる先生の動きを感じて一緒に踊ることができる。つまりM先輩は、視覚情報と聴覚情報だけでなく、先生のリズムと自分のリズムをダイレクトに同期させることで、その踊りを自分の中に取り込んでいたのではないか。最新の脳科学では体に指令を出しているのは脳だけでなく、各臓器もそれぞれ信号を出し合っていることが分かっているそうだが、踊りという行為の中では、先生の体の信号を弟子は自分の脳を介さずに直接自分の臓器や筋肉と繋ぐことができるのではないか。
「何を大袈裟な」と言われそうだが、人間はそもそも言葉を使う前から集団で狩りをしていた。民族音楽学者の小泉文夫さんは、同じエスキモーでも鯨を獲るエスキモーとカリブー(トナカイ)を獲るエスキモーでは音楽的リズム感が違うことに注目し、鯨を獲るエスキモーは、集団で息を揃える必要性からリズム感のある音楽を手に入れたと述べている。
日本舞踊が「息と間」の表現であることは前回の記事で先生が述べられたとおりである。M先輩が隣の先生の息を取っていたかは定かではないが、頭だけを使って踊っていないことは明白だ。

日本舞踊の稽古で鏡を使わない理由は、生徒の身体感覚を研ぎ澄ませるためにある。
小学生でもその状態は訪れるし、むしろ子どもの方が豊かなセンサーを持っているだろう。こう考えると、そのセンサーを使う体験が提供される日舞教室は「やっぱりいい習い事だなあ」と思うのだが、ここでボクは同時にもう一つのことを考える。

では、昨今爆発的に増えているオンラインレッスンは、子どものセンサーを育む機会になるだろうか……。

今はコロナのこともあって仕方がない部分もあるが、安易なオンラインレッスンの導入は子どもたちにとって窮屈なものであることを我々大人はもっと自覚しなければならないのではないか。

芝居の力

これが最後だ。
『玉兎』の演目で兎が火打ち石を拾う場面があるが、先生はここを教える時に、突然「あった!」と石を見つけた瞬間の兎になった。その息の変化が鮮やかなのでM先輩はつられてビクッとなって自分も「あった!」という顔になった。そしてその顔を自分でしておいて「びっくりした〜」と呟いたのである。

これが芝居の力だと思った。芝居とは演じる者と見ている者がフィクションを通じてつながった状態のことを言うが、先生が「あった!」と火打ち石を見つけた時にM先輩は自分も火打ち石を見つけてしまったのである。それがあまりに突然やってきたので、その後我に帰って「びっくりした〜」と言った。
この時Nちゃんがどんな顔をしていたか、ボクはM先輩に気がとられて確認出来なかった。しかし、この後の二人がすごく仲良くなったことや、Nちゃん自身にも真似の衝動がおよび、自ら振りを披露し始めたことから考えると、きっとびっくりした顔をしていたに違いない。芝居の力はNちゃんも一緒に巻き込んだ。そう。日舞は芝居の踊りなのである。ごっこ遊びが大好きな子ども達がこの習い事を好きにならないわけがない。

想像力を持って生まれてきた子ども達が自分の想像力をフル稼働させてワクワクする。この経験はいつかきっとその子の生きる力になる。大切なのは今その子がワクワクしているか。誰かと共感しているか。これは、役に立つ立たないの話ではない。

最後に出来上がった紹介動画(1分)をどうぞ。
M先輩の勇姿とNちゃんの笑い声が収められています。

ふきの会公式サイトはこちら

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