韓国演劇史シャーマンの祭儀「クッ」について③ー現在のクッを聞いてみる

ここまでは書物だけで見てきましたが、本来クッは体験するもの。でもなかなかそうもいきませんよね。というわけで今日は、クッの音楽をCDで聞いてみましょう。

※表記について…名称の中には当然日本語の発音にないものもあります。(小)という表記は、その前の文字を小さく発音する事を意味します。
※2019年10月2日に大幅に加筆しました。

参考文献

  • (1)『韓国演劇史』ー伝統と現代ー
    徐 淵昊Suh,Yon-ho著
    伊藤好英・村上祥子共訳
    朝日出版社   2009年
  • (2)『朝鮮半島、インド、東南アジアの詩と芸能』アジアの芸術史文学シリーズ「上演編弐Ⅱ」より
    赤松紀彦編
    芸術学舎       2014年

クッを聞いてみる

「豊漁の祭儀~東海岸別神クッ」
レーベル…ビクターエンターテイメント
解説文…神と人とを仲介し、意識と霊魂を解き放つシャーマン音楽。不世出の天才、金石出率いるアンサンブルが繰り広げる、世界に類を見ないポリリズミックな音楽世界の神髄を収録。
1991年12月 韓国釜山市にて録音

このCDは、購入しなくてもタワーレコードのサイトから視聴することができます。
視聴ページはこちら

ちなみに私は数年前に図書館で借りたものをiTunesに入れてすでに聞いていました。(これがまさかクッだったとは!?)

曲は全部で3曲。
1、門クッ四物(30分)
2、胡笛散調(14分)
3、世尊クッ(26分)

視聴版だと短いので歌い手(ムーダン?)が登場するまでに曲が終わってしまいますが、1曲目と3曲目には歌が入っています。それは一般的な歌の概念で捉えるより「メロディを伴った詩」と捉える方がイメージしやすいかもしれません。他の楽器で目立っているのは、シンバルと太鼓でこれが伴奏をなしています。私のように専門的な知識を持たない者には、シンバルの音は京劇を連想させましたし、メロディがあるのかないのか分からないまま、それが数十分もずっと続いていきながら時に歌(詩? セリフ? 語り?)が入ってくる様は、インドのカタカリを思い出しました。
またチャルメラのようなリード楽器が入ってきてメロディを奏でています。このリード楽器の音が聞きたい場合は、2曲目を聞いてみてください。曲の頭から入ってきますので視聴版でも聞くことができます。

興味深いのは、1曲目においては、歌が入ってきても打楽器もチャルメラも音量を下げることはなく、むしろ大きくなって両者が拮抗しているような雰囲気を作ることですね。3曲目では、歌い手は二人になり、掛け合いのような歌や語りを聞かせてくれますが、「ハーモニーをとる」ことはありません。
これは面白い。私は、去年までハーモニーとはヨーロッパからやってきたものだと思い込んでいました。しかしそうではなく、音楽学者の小泉文夫さんの研究によれば、台湾の高砂族(高山族)にも素晴らしいハーモニーの文化があります。これは、YouTubeで聞くことができますのでぜひ聞いてみてください。

ハーモニーを奏でているのは高砂族の中のブヌン族という人々です。で、この人々は昔は首狩り族であったと言われていまして、首狩りとハーモニーには密接な関係があるのですが、ここで一つお断りしておきたいのは「首狩り=野蛮」とイメージだけで一面的に捉えてしまっては恐らく音楽や人間の本質を見誤ります。私も以前少しだけこのことについて記事を書いていますのでもしよろしければ、そちらもご覧ください。

それより何より、お時間の許す方はぜひこのまま小泉文夫さんの動画(音声)を聞いてみてください。本当に素晴らしい研究だと思います。

小泉文夫さんの研究により、ハーモニーとは「リーダーなき連帯」の一つの手段であることが分かります。狩りという個々人の瞬間的判断力と、その上で集団の組織力が問われる行為の中ではリーダーを置いてそのリーダーの司令の元に行動する、というのでは遅いのです。そして言葉も情報の交信としては時間がかかりすぎる。ですから実際に使われるのは体の情報をキャッチすること。身体的同期ですね。それを高めるために歌が使われていたというのがブヌン族におけるハーモニーの意義です。能楽師の安田登さんも能の身体感覚を説明するのにお話ししていた内容です。というより私はこの安田登さんの著書(『日本人の身体』ちくま新書2014年)を読んで小泉文夫さんの研究のことを知りました。

ええっと、話がなかなか進まなくて申し訳ないんですが、小泉文夫さんによれば、人間の音楽はまずハーモニーがあり、その後文明の起こり(王権の起こり)とともにユニゾンの世界に入っていったということらしいのです。古代四大文明(エジプト・メソポタミア・インダス・黄河)にハーモニーはないそうです。ヨーロッパでハーモニーが盛んになったのは、未開のゲルマン民族がいたからだと小泉さんはおっしゃっています。面白いですよね。私なんか素人はユニゾンの次にハーモニーという複雑な音の組織を手に入れたと思っていたのですが、逆で人間の身体的同期を作るために自然発生的にハーモニーが作られ、その後王権とともに社会組織が巨大化する中でリーダーを必要とするユニゾンに変化していった……私は2017年に児童演劇の世界大会に参加するために南アフリカを訪れた際、現地の人たちが並んでいる間に少しでも暇があれば歌い出してしまう様子をなんども目にしました。それはいつも踊りを伴うハーモニーの音楽でした。誰が音頭をとっているかも分からない混ざり合った音楽でした。日本人とは全く違う音楽の捉え方がそこにありました。

で、ここでやっと話を元に戻しますと、クッの音楽には日本人としてなんだかちょっと近いものを感じます。「おっ、やっぱハーモニーじゃないのね。うんうん。」という感じ。何を歌っているのかは分かりませんし、楽器の音も異国情緒を感じはしますが、全く違う文脈で奏でられている感じはしない。そういう距離感を感じました。

そしてもう一つ考えたいのは、クッが「叙事詩」であったということです。

クッにみる叙事詩と歌謡曲の関係

祭天儀式において、神を迎え入れるためにムーダンは巫歌を歌いますが、これは古代の民族叙事詩にあたるものです。上古の叙事詩といえる始祖の伝説、神話が神を祀る祭祀で使われた巫歌の中に伝わっています。(中略)日本の『古事記』にも、歌謡が叙述の中に挟まれて取り込まれているように、一続きの叙事詩の中から、歌謡だけを取り出したのが歌謡の始まりだといえます。(1)

京都大学総長のゴリラ学者山極寿一は、人間がなぜ神話を語り継いできたかと言うことを「自分たちがどこからきたのかということを子孫に伝えつなぐため」と説明しましたが、叙事詩とはまさにそのことであり、主人公に感情移入をしながら社会と向かい合うという近代の物語の視点に比べて、叙事詩はもっと俯瞰的に物事を語り、時間の流れも緩やかに大きく過ぎていくイメージがあります。(私は叙事詩を具体的にまだよく知りません)

韓国演劇史の起源に属するクッが叙事詩として形成されていたこと、その解説に日本の『古事記』の文字が併記されていたことは私にとって興味深いことです。そしてその叙事詩が歌・演奏・舞・演技という総合芸術の中で表現されていたことは、とても重要だと思います。「我々はどこから来たのか」という根源的問いかけは、今の我々も常にしています。それは本屋にいって「日本人」と前書きの入った書物がどれだけ多く出版されているかを見れば分かることです。先ほどの安田登さんの著書も『日本人の身体』でした。他にも山ほど出てくるはずです。ルーツや起源、源流を辿ることは我々にとって普遍的な興味なんですね。しかし、ムーダンの記述が興味深いのは、現代人の我々はそういうことを書物や映像を通して知識的(思考的)に捉えますが、ムーダンは総合芸術の中で身体的に訴えかけているということです。こう書いていて私の頭はまた寄り道を始めます。どなたが書いたことかはもう忘れてしまいましたが、相撲の動きの中には農耕民族の体さばき、筋肉の使い方が凝縮して入っているので、昔の農家の人は、相撲を見ていると自然に体が一緒に動き出してしまっていたということです。これは、自分たちのルーツを身体的に捉え直している一個の行事と言えますよね。人間は自分たちのルーツを太古の昔から大切にしてきた。それが神話(叙事詩)を生み出した。そしてその叙事詩は、総合芸術として語られた。身体感覚を伴って受け止められた。

はい! では、今の演劇はどうですか?
頭ばっかりに訴えかけてないですか? 思考だけで受け止めていませんか?

私は、このことに挑戦している人が野田秀樹さんなのだと思っています。『せりふの時代』という1996年−2010年まで続いていた演劇雑誌がありますが、そのどの号だったかに、野田秀樹さんが当時「静かな演劇」の旗手として大旋風を起こしていた平田オリザさんを指して「いや、演劇って本来もっとダイナミックなものだろ」と一蹴していました。私はそれを読んだ時その意味が分からなかった。ダイナミック=大げさな台詞回し、くらいに捉えていました。でもおそらく野田秀樹さんのいうダイナミックとは、思考の回路以外の身体感覚もフル稼働させて相互作用するものという意味だったんだと今は納得しています。

私は、演劇の中でも児童演劇というジャンルに属しています。児童演劇とは、子どもたちを観客とした演劇全般のことです。その子どもたちの身体感覚は並外れています。思考で凝り固まった大人と違って子どもたちの身体は観劇中にめちゃくちゃ動きます。息を飲む。飛び上がる。立ち上がる。倒れる。顔を見合わせる。これこそ野田秀樹さんのいう演劇本来の姿じゃないですか。でも演劇全般、特に子どもたちに理想を言って聞かせるような偽物の児童演劇には、思考で伝えられることを言葉でそのまま語っちゃうようなものが沢山あるんです。それは本来演劇ではない、と私はこの世界にいると体験的に分かってくる。でもそれをもっと掘り起こして考えてみたい。だから文字が出来る前の演劇の形を見てみたかった。文字は思考の結晶なので。私はクッについてそんな事情を常に横に起きつつ本を読み進めています。だから全然前に進まない! 笑

現代のクッ

話をクッに戻しましょう。
今の韓国においてクッの存在がどのようなものかを見ていきます。

社会の急激な変動によって、今日韓国のクッは極めて沈滞した状況に陥っている。ソウルのクク(小)サダン(国師堂)で行われるクッは、個人の幸運と繁栄を祈るチェスクッが中心である。東西南海岸とチェジュド(済州道)で行われるクッは、豊漁クッがほとんどである。新年を迎えると豊漁村の神堂でマウル(小)クッが開かれる地域が一部残っている。医療施設が発達したためにピョンク(病気祈祷)をみることは難しい。不幸な死に方をした若者のために行うオグクッはとても稀である。ほとんどの韓国のムーダンたちはクッよりも占い・日取り・厄払い(小さいクッ)などをして生計を立てている。たとえクッを行うとしても、社会団体とか公演団体の支援を受ける場合が次第に増えてきている。宗教祭儀というよりも一種の行事用のクッとして、公演芸術としておこなわれているのである。(2)

クッは地域コミュニティの儀礼から切り離され、保護され、興行という枠組みの中に組み込まれ存続しているということでしょうか。2004年の段階で韓国政府から無形文化財として指定されているクッは以下のようです。

無形文化財としてのクッ

  • チュンチョンナムド(忠清南道)のウンサンピョルシンジェ(恩山別神祭)
  • カンウォンド(江原道)のカンヌンタノジェ(江陵端午祭)
  • トンヘアンピョルシンクッ(東海岸別神クッ)
  • キョンギド(京畿道)のヤンジュソノリクッ(楊州ソノリクッ)
  • クリシカルメドントダンクッ(九里市葛梅洞都堂クッ)
  • スウォンシ(水原市)のキョンギトダンクッ(京畿都堂クッ)
  • チェジュド(済州道)のチル(小)モリダンクッとクンクッ
  • チンド(珍島)のシッキム(小)クッ
  • インチョンシ(仁川市)のソヘアン(西海岸)ペヨンシンクッ
  • カンファドウェポリ(江華島外浦里)のコッチャンクッ
  • チョルラプク(小)ト(全羅北道)のウィド(蝟島)ティベンノリ
  • キョンサンナムド(慶尚南道)のナメアンピョルシン(南海岸別神)クッ
  • ファンヘド(黄海道)のピョンサン(平山)ソノルム(小)クッ
  • ソウル市のソウルセナム(小)クッ
  • ナミジャングンサダンジェ(南怡将軍祠堂祭)
  • キョンサンプク(小)ト(慶尚北道)のヨンヘピルルシン(寧海別神)クッノリ

国家によって保護され、開催する場も本来のコミニュティーから興行としての劇場に変更した時にクッ本来の力がどれだけ失われるのか、また逆に洗練されるのかということは実際に体験してみなければ分かりません。そしてこの問題は日本の地域芸能と同じ問題だとも思います。

というわけで、今月9日からの韓国訪問でクッに触れられたら追って報告をさせていただきます。韓国の友人に「何かない?」と連絡してみたら早速いくつかイベントを紹介していただきました。飛行機到着後すぐに始まるイベントなどもあり、実際に観られるかまだ分かりませんが、韓国修学旅行に向けて気持ちはどんどん高まっています。

というわけでクッに関する調べ物はこれでひとまず終了。
次回は韓国の仮面劇(タル(小)チュム)について見ていきたいと思います。

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