子どもに伝えられることは何か1 〜「森は生きている」を通して考える

縁と偶然が重なって、この冬劇団仲間の代表作「森は生きている(以下略して「森…」とする)」の公演に裏方スタッフとして同行させてもらった。稽古に本番に何度も「森…」の世界と接しているうちに、あることに気がついた。それは自分がここ数年考えてきた「児童演劇に大人から子どもたちへのメッセージなど必要ないのではないか」という疑問を根底から吹き飛ばしてしまうような発見だった。「森…」の中には大人から子どもたちへ向けた明確なメッセージが隠されている。それは「教育」というにはあまりに素朴で慎ましく、生きることそのもののルール説明といっていいほど普遍的なもので、その素朴さ故に21世紀の今日においては特別な意味を持つ。「森…」を通して、子ども達に伝えられることは何か、ということを改めて考えてみたい。それが決して今の自分に出来ないことであっても…

作品について

今さら私が説明するまでもないが、一応作品について確認しておく。

「森は生きている」は、ソヴェート・ロシアの詩人であり童話作家のサムエル・マルシャークがスラブの伝承を元に1943年に発表した「Двена́дцать ме́сяцев(十二月/じゅうにつき)」を湯浅芳子が1952年に翻訳したものである。その時に湯浅は原題の「十二月」という言葉の意味や音としての重みが日本語では表現できないと判断し「森は生きている」という邦題をつけた。ちなみに湯浅はこのタイトルについて「後で『十二月物語』というのを思いつき、惜しいことをしたと悔やんだが、もう遅い。すっかり『森は生きている』で通ってしまったことを原作者にすまなく思っている。いつか機会を見て『十二月物語』に改めたい。」と述懐している。(雑誌「図書」1954年7月号より)

日本では最初1954年に劇団俳優座が初演し、その後劇団仲間が1959年から上演を続け、今では上演回数2000回を越える冬の名物詩となっている。他にもオペラシアターこんにゃく座など、多くの劇団が「森…」を上演しているがここでは触れない。また、私の発見は劇団仲間の上演あってこその発見だが、ここではなるべく上演そのもの(演出や演技)について考察するのではなく、マルシャークの戯曲について考えたい。それでも途中セリフなどを引用する際は、劇団仲間の上演台本(2018年度版)から借用した。その理由は、元になっている昭和28年発行の岩波少年文庫版と比較すると部分的なカットこそ見られるが、原作に忠実な上演台本だということ、主人公の呼び名は、原作では「継子(ままこ)」となっているが、多くの人々にとっては劇団仲間(俳優座?)が採用した「みなしご」という呼び名の方がしっくりくると思ったからである。

 

あらすじ

新年を控えた大晦日に女王は、四月にしか咲かないマツユキ草を欲しがり、持ってきた者には賞金を出すというお触れを出す。このお触れを聞き、欲の深いおばさんとその娘は、みなしごを冬の森に放り出し、マツユキ草を見つけるまで帰ってくるなと命じる。みなしごは命を落としそうになるが、その時、暗い森の中で真っ赤に燃える火を目にする。それは、大晦日の晩に、十二月(じゅうにつき)の精が一同に会して燃やすたき火の炎だった。みなしごは元気を取り戻し、十二月の精の力でマツユキ草を手に入れ、四月の精からは、婚約の指輪と魔法の言葉を授かる。十二月の精達は皆、みなしごのことをよく知っていたのだ。

しかし、家に帰ったみなしごはマツユキ草だけでなく指輪もおばさんとその娘に奪われてしまう。母子はさっそく御殿へ向かうが、気まぐれな女王は、自分でマツユキ草を摘みたいと言い出し、兵隊を引き連れ、母子とみなしごを道案内に立てて森へと向かう。しかし肝心のマツユキ草は見つからない。みなしごが十二月との秘密の約束を守って固く口を閉ざしたからだ。これにしびれを切らした女王は、みなしごの指輪を湖の底へと投げ捨てる。その瞬間、みなしごは魔法を唱える。すると冬の精が現れ、みなしごを連れ去り、女王一行を魔法で幻惑する。そして母子を犬の姿に変えてしまう。

女王一行が暖を求めて十二月のたき火にたどり着いたとき、そこには見ちがえるほど美しい姿となったみなしごがいた。女王は城に帰るため、みなしごにソリに乗せてくれるようお願いをし、みなしごはこれを承諾する。十二月の精から様々な贈り物をもらったみなしごと、人に頼むことを学んだ女王は、こうして森を後にする。静けさを取り戻した森には、動物達が再び顔を出し、新しい年の最初の日を喜ぶのだった。

 

「森…」が伝えていること

さて、では「森…」は子ども達に何を伝えているのだろうか。ここで演劇雑誌テアトロが1963年12月号において劇団仲間の公演を紹介した文章を引用してみたい。

この作品は、古くから伝わるスラブの伝説、すなわち新年を控えた大晦日の晩に、一月から十二月までの月の精が残らず森の中で出会うという伝説を元にして書かれたもので境遇の不幸に負けることなく、いつも明るさと他人への思いやりとを失わず、雄々しく勤勉に働く少女が思いもよらぬ幸福を得たという物語です。

~今月の新劇のコーナーより※著者不明~

これを「鵜呑み」にすれば、この作品は、まさにシンデレラストーリーなのだが、「森…」のみなしごを観てシンデレラを連想する人はいないのではないか。シンデレラが城を目指すのに対して、みなしごは森にとどまっている。城や町での華やかな生活に憧れている印象はなく、森の中に幸せを見いだせるヒロインなのである。確かに物語は「勤勉に働く少女が思いもよらぬ幸福を得た」ストーリー展開をしているが、これがどういうことかと考えるときに大切なのは、「勤勉」という言葉をどう捉えるか、ということではないか。つまり、勤勉の基準はどこにあるのか。この基準を探り当てることが「森…」に込めたマルシャークのメッセージを紐解く鍵になるはずだ。そしてその答えはセリフの中に明確に現れている。
みなしごがマツユキ草を摘みに退場した時、その後ろ姿を見送って交わされる十二月の精達のセリフをみてみよう。

 

十二月   わしら冬の月々はあの子をよおく知っている…氷の穴のところで、両手に桶をさげたのに会うかと思えば、森の中でたきぎの束を背負っているのにも会う。

一月       そして、いつでもあの子は明るくて、愛想が良くて、一人で歩きながら歌っている…だが今日は沈んでいた。

六月       僕ら夏の月々だって、勿論あの子を知っていますよ。

七月       そうとも、知っていますよ。

八月       あの子はまだ太陽も昇らないうちに、もう畑に出て草むしりをしたり、支えをしたり、虫を捕ってやったりしています。

七月       森に来ても、無闇に枝を折ったりしませんよ。

八月       木の実は熟れたのだけを摘んで、青いのは藪に残していきます。

六月       独りでに熟すまで、そうっとしておいて…

 

と、このようにみなしごが季節の変化に合わせて健気に暮らしてきたことを語り合うのである。極めつけは二月のこのセリフだ。

 

二月       あの子は二月の月をよく知っている。二月もあの子をよく知っている。あの子のためなら、冬の最中に一時間ぐらい春をやるのも惜しくはないというものさ。

 

これで明らかなように、「勤勉」の基準は自然を相手に決められているのである。それは、この後に指輪を授かったみなしごに対する一月の注意の中にも濃厚に現れる。

 

一月       今度はわしの言うことをお聞き…お前は今日、この古い年の最後の日で、新しい年の最初の夜に、揃って一度に十二の月と出会うことになった…八月の月がやってくるにはまだまだ時間がかかるのに、ほれ、もうお前の前に立っている。

八月       四月のマツユキ草はこれから咲くのに、あんたの籠はほら、もういっぱいだ!

一月       お前は一番近道をして、わしらの所へやって来た。だが他の者はこの長い道のりを、一日一日、一時間一時間、一分一分と歩いてやって来る。またそれが本当なのだ…お前はこの近道を誰にも教えてはいけない。この道は来てはならない道なのだよ。

 

私は、このセリフの中にマルシャークの子ども達への強いメッセージを感じる。それは最早「勤勉」などという、人が人を査定して使う言葉を越えて、自然の中で人間がどう生きてきたか、どう生きていくべきかということについての揺るぎないルールを伝えているようにすら思えてくる。

揺るぎないルールと揺れるルール

さきほどのセリフの中にもあったが「森…」の中には、「畑」「草むしり」「ミツバチ/巣箱」「小麦」のように農耕を前提とした言葉が沢山出てくる。なので、揺るぎない、といったところでそこには「農耕以後の」という前置きが入るが、それでも数千年間培われてきた価値観であり、「正義」という価値観のように時代によって180度姿を変えてしまうお粗末な印象はない。

「森…」という作品は、他に例をみないほど重厚な作品だが、それは2時間半を越える上演時間や、30人近いキャスト数や、遮幕を使った大掛かりな舞台転換よりも、数千年間変わることなく続いてきた、人と自然との関係を謙虚に描いたことに本当の秘密があるのではないか。

その瞬間、一月の精のセリフは、子どもではなく我々大人に向かってくる。冬は暖房、夏はエアコン。衣食住に関わることは全て金でまかない、自分の身一つで自然から直接エネルギーを手に入れる必要のないまま大人になってしまった私たち。そんな我々が子ども達に何を伝えられるのだろうか。我々が子どもに何かを伝えようとする時、そのほとんどの価値観や技術や知識は、「超巨大なエネルギー消費社会を生きている事への根本的疑問」を抜きにして行われる。例えば、「赤信号を渡ってはいけない」と教えるのもその一つだ。なぜ赤信号を渡ってはいけないのか、その根本的な疑問を持つ事せずに、親は赤信号を渡る子を叱る。これは何も「車が来ていない時には赤信号を渡ってもいい場合がある」という例外のことを言っているのではない。信号という仕組みそのものが、車社会を前提とした上での制度であることを指摘したいのだ。我々は、自動車を使うことによって人と物を圧倒的スピードとパワーで移動させ、社会のあり方を変化させてきた。自動車産業や自動車が通るための道や橋を整備することは、今なお経済活動の中核をなしている。しかし、その圧倒的パワーとスピードによって起こる交通事故は毎年多くの死傷者を出している。近年、その数は減少の一途をたどり、昨年2018年の死亡者数は、3532人と、1948年の統計を始めて以来最も少なかったという事がニュースになった。しかし、「減った」ことに目を向ければ、朗報なのかもしれないが、我々が自動車社会を選んでいることによって、年間3000人以上の人々が、ある日突然その命を失ってしまったことに変わりはない。私はここで自動車社会の弊害を訴えたいのではない。それよりも年間の死者数が3000人を超えていながらそれがニュースで「過去最低」と報じられれば、「よかったよかった」と胸をなでおろしてしまう我々の脆弱な価値観について考えたいのである。「赤信号を守りなさい」と、大人が子に教育する時に、その大人の価値観は社会の中で造成された基準を元にしているに過ぎない、という事を指摘したいのである。

子どものルール

「信号を守りなさい」というのは、車社会の弊害を未然に防ぐために新しく作られたルールである。しかし、子どもはそのルールを守らず急に走り出す。それはルールが分からないからではない。子どもは全く別のルールに従って走り出したからである。それは「発見」や「喜び」である。その子が走り出した時、その子は何かを見つけ、いち早くその場に駆け寄りたかったのだろう。もしくは、あまりにもの喜びに体全身が躍動し、駆け出さずにはいられなかったのかもしれない。その瞬間、その子の体の中で神経細胞が働いたのか、ホルモン変化が起こったのか、専門的なことは分からないが、爆発的な何かが起こっていることは確かであり、その刺激によって自分の体を思う存分使うことは、その子にとって最高の学びの瞬間であるはずだ。それを信号が抑制しているのである。もっと言えば、車社会をよりスムースにするために、道路はぬかるみや砂埃を起こさないようにアスファルトで平坦に塗り固められている。これにより、我々は靴なしでは生活する事が難しくなっているが、子どもたちは裸足で歩くことが大好きだ。それは、足の裏の感覚が色々な事を教えてくれる事を本能的に知っているからだろう。つまり、車社会は子ども達の命を脅かすだけでなく、走りたいと思った衝動を抑圧し、足の裏で世界を掴む機会を奪っている事になる。その事に自覚的な親はほとんどいないだろう。悲しいかな世界の基準は子どもではなく、大人の都合によって作られているのだ。

お目当ての場所について喜びのあまり飛び跳ねる姪っ子

「森…」の秘密

ここで例を取った車社会を前提としたルールは、せいぜい百年かそこらで造成された価値観だろう。対して子どもの持っているルールは、身体のメカニズムや喜びそのものに直結している事を考えると、人間の根源的な価値観であるような気がしてならない。児童演劇を通して子ども達に関わっていれば、そういう事を考えるようになる。私がこの頃「大人が子どもたちに伝えられることなどないのではないか、むしろ子どもたちの価値観から、大人の価値観を見つめ直していくことこそが、児童演劇の本当の姿なのではないか」と言っているのは、まさにこの事に起因する。そんな私をもう一度根底から揺るがしたのが、先述の「森…」の十二月達のセリフだった。

マルシャークは、子ども達に凛とした大人として、自然との関わり方を伝えている。「大人から子どもに対して伝えられることはあった!」のである。しかもそのメッセージは、セリフとして明確な形を取りながらも、もっともその事を伝えたい子ども達に対しては、十二月の歌う歌や踊りの躍動感を通して伝えられている。子ども達は、十二月の歌を一緒に歌いながら、大自然の中に飛び込み、世界そのものを発見している。子ども達はワクワクしながら世界のルールを学び、大人達は都市生活で見失った慎ましさを取り戻す。これが「森…」が児童演劇史の中で金字塔のごとく輝き続ける一番の秘密ではないか。「来てはいけない道」を歩み続ける都市生活者の自分には、とても書けない物語だ。私は今、仮免許でこの地球を生きている。

「森…」に同行して気がついたことはもう一つある。次回は女王の事について考えてみたい。

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