いきなりインタビュー:クラウンYAMAさん②帰国後のスタイル迷走期から、セリフ劇への挑戦、今のYAMAさんまで(3点理論解説付)

ではインタビューの後半です。全3ページ、どうぞお楽しみください!

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目次

衣装とメイク迷走期

Q、ロシアから帰ってきてからのことを教えてください。

ちょうど今無くなってしまったけど、その当時野毛シャーレ(横浜)っていう、もともと図書館があったところに大道芸人が練習する場所があったんですよ。そこを借りてたら、たまたまボリショイサーカスで働いていたロシア人が日本人と結婚して、その奥さんが旦那の仕事場所を探して色んな人に電話をしてたんです。で、ボクにロシアのサーカス学校を教えてくれた人にも連絡がいって、その人がボクのことを教えて、野毛シャーレで会って、そこを運営していた人が野毛大道芸の関係者だから、「じゃあ今年コンビ組んで野毛大道芸に出ればいいんじゃない?」って言われて、二人でコンビを組んで野毛大道芸に出て、その時には「ロシア人と組んでるから面白い!」ってテレビの取材があって、1年くらい一緒にやってました。

Q、その写真があるんですか?

ちょうどこれが2000年だと思います。アンドレイって言って、年齢はほぼボクと同じくらい。ハンドバランスをやる人なんです。棒の上で。梯子も登ったりとか、アクロバットの芸の人なんですよね。だからサーカスの中だと7分しかないんです。日本だとやっぱり30分くらいやらないとパフォーマンスにならない。それで仕事が無かったから、ボクと組んで30分ショーできるようにっていう感じだったんですよね。でもこの頃って大道芸の外国人ってすごく稼いでたんですよ。1ショーで30万とか。で、投げ銭も入るから1回で50万円くらい。それと比べ始めて、「なんでボクはこんなに稼げないんだ?」って言い始めちゃって。「じゃあ自分で頑張って」って解散しました。

Q、この時期の大道芸はすごかったんですね。

特に外国人は、ですよね。最低でも相場が20万くらい。大道芸で家を建てられた時代ですからね

横浜に「にぎわい座」って寄席があって、そこの地下に降りる階段にでっかい絵が飾られてて、それこの時のこの格好のボクなんですよ。その絵は誰かが写真を撮って、誰かがそれを元に絵を描いたらしいんだけど、それを見た時に「あれ? これオレじゃね?」っていう。情報は何もきてないんだけど絶対この衣装ですよ。

やっぱまだメガネがないんですよね。ずっと目をどうしていいか分からなかったんですよ。途中からメガネをかけて、ドーラン塗っただけで目がキリッとしちゃって歌舞伎みたいになるんですよね。だから目は悩んだんです。垂れ目にするために黒く描いたりとか、色々工夫してて。でもメガネかけるだけで雰囲気違うんだ、と思って。どっかでメガネをかけ出して。

Q、この時何歳くらいですか?

28~30歳くらいだと思います。

この衣装は母親に作ってもらったんですよね。いいんですけどホテルの仕事とかはやっぱりちょっといけないなって。作りとして。

こっちはちゃんと衣装さんに作ってもらったもので、暑いから上着は着てないですけど、やっぱりちゃんと衣装さんに作ってもらうと、どこの現場でも対応できる。

Q、メイクで印象が全然違いますね。

この辺までが迷走時代。それぞれ1年ごとくらいだと思います。現場現場で「衣装もメイクも違う」って言われた時代で。

Q、20代後半から30代前半にかけて?

そうですね。

Q、この時は大道芸ですからチケットを買ったお客さんが対象ではなく、偶然外を歩いている人に向かってパフォーマンスしていたということですか?

ボクはフェス以外はほぼ大道芸やってないんですよね。それ以外は児童館やパーティーから依頼される仕事だったのでほぼ室内だったんですよね。

それじゃあ仕事取れないよ

Q、その後衣装もメイクも定まってきて今の形になったんですか?

この時代は「やっぱりちゃんとメイクしないと」っていう意識がありました。だけど先輩とかがきっちりメイクをしてるのを見て、あれって最初から笑顔のメイクじゃないですか。そうすると仮面に見えてきちゃったんです。すると「怒りたい時は怒っていいよ」って考えでも顔はずっと笑顔になってるっていう。それに違和感を感じたので、だんだんメイクを落としていったんですよね。でも印象は残すために眉毛太くしたりとかしながらも「表情は見えるように」って、メイクを落としていって、「そう言えばレフ先生が紳士って言ってたなあ」って思い出してタキシードを着た。でもタキシードになって黒になった。35、6歳の頃ですが、「それだと営業は取れないよ」ってすごい言われた。やっぱりみんなピエロさんを想像するじゃないですか。この時代でも「それだと仕事取れないよ」って言われましたもん。でもその頃は「いいんです。」って感じでしたね。「ボクは別に自分のスタイルでやります」。下手すると40歳近かったかもしれませんね。で、今にほぼ近い。黒っぽい格好でタキシードで、赤鼻とメガネくらいでメイクはそんなにしないスタイルにして、「ボクはシアタークラウンだから」って、プークをお借りして、2年で6回プークでショーやったんですよね。

Q、新宿のプーク人形劇場ですね。

はい。もう舞台の人っていう印象を付けようと200万くらい使って。貯金が無くなって、段々舞台やらなくなったけど。でもその印象がつきすぎて、YAMAさんは舞台の人と思われて営業が来なくなったんです。「あれ? 営業はやってますよ。」(笑)。「でも営業でやりたいことが出来ないから、舞台やってんですよ」って。その時期、営業が来なくなってました。

やりたくないことはやらない

Q、多くのクラウンが営業主体であるにも関わらずYAMAさんは違う道を進んだということですよね。どうしてそんなことが出来たんでしょう? メイクが変わっていくにしても演出家がいるわけじゃないし、観客だって例えば子ども劇場のように毎年顔を合わせたりするわけじゃない。一体何を指針にして自分の方向を探り続けることが出来たんでしょう?

基本的には「やりたくないことはやらない」と思ったんですよね。だから「営業取れるように衣装もっと原色にして」って言われたら「じゃあその仕事要りません」とか。他には子どもは風船大好きだから、風船をずっと作る仕事もあるんですよ。「30分ずっと風船作ってて~」って。そういう仕事はお金は良かったりするんですよ。でもそれはやりません。そうすると、自然にそういう仕事が来なくなるんですけど、別な仕事が逆に来たりするので、なんか望めば来るのかなって。だから「風船の仕事やりません」って言わなくても、「あれ? 気付いたら風船の仕事来てないな」って。でも他の仕事があるんで、トータルの収入はあんまり変わらなくなってきて。だから望めばそっちにいくなっていう印象はあります。言い続けたことによってそっちに行った。だからボクは公表することにしてます。すると向こうから来るっていう考えなんですよね。

2年間ずっとテレビ

Q、ということはYAMAさんは、自分のやりたいことに向かっていくというよりは、「やりたくないこと」を削っていきながら自分の進む方向を探ってたという感じでしょうか?

そういう感じですかねえ。でもありがたかったのは、その頃はもう結婚はしてたんですけど、奥さんに「風船作るだけの仕事があります。お金はこれだけもらえます。家のためにやったほうがいいですか?」って聞く。そしたら「やんなくていい」って言ってくれた。「じゃあ、やりません」。結婚して2年間は、ほとんど仕事なくて、食べさしてもらってましたもん。ほぼヒモ状態。結婚した時は奥さんはOLをやってたので朝お弁当作って送り出して、ボクはアルバイトもしてない。「ボクはクラウン以外やらないって決めた」って言ったら「いいよ」って言ってくれたので、奥さんの稼ぎで2年間アルバイトもせず家でずっとテレビ。練習もせずに。

Q、練習もしなかったんですか?

練習もしなかった。練習場借りてもなかったから。みんな一緒に練習したりとかはしてたんだけど、そういうところいくとジャグリング練習が多いんですよね。「それは家で出来るよ」って思ってたし、「ジャグラーじゃないし」っていうのがあったので、ただテレビを観てた。想像はしながらね。「オレはすげえなあ」って。「レフ先生にいいこと習ってたなあ」って言いながら食べさしてもらってた。

Q、何歳で結婚したんですか?

27歳。 ロシアから帰ってきた年。6月に帰ってきて無職でそのまま挨拶に行きましたからね。「今仕事は?」「無職です」「どうすんの?」「やっていけると思います。ちゃんと勉強してきました」。向こうは「あ、ああ……」「じゃあもう結婚していいってことですか?」「あ、ああ……」。

Q、すごい!

あんなに押されると思わなかったみたい。でもボクは「そのために来たんだから」って。なので無職のまま結婚したので奥さんも怖さがない。「私が食べさせる」って。だから今も怖さがないと思います。「なんとかなるんじゃない?」って。ありがたいことに。

ボクだからできること

Q、やっぱり嫌われない圧倒的な何かがYAMAさんの中にあるんでしょうね。だから仕事を断っても話が来る。

でも来る人は変わってきますよ。例えばイベントを断ったして、そこが違う仕事を持ってきてくれるわけではないので。そことは交流は無くなって、違う新しい出会いが生まれて、それが舞台だったりとか、他の人とのコラボだったりとか、でもそうやってると、再びこっちのイベント会社の人が思い出したのか、他の人が忙しいのか、急に連絡が来て、「こんなお仕事あるけど」って。その時はもう気持ちも変わってるからバルーンだけの仕事だったりしても「やりますよ」って。 でもやり方が変わる。例えば30分風船だとしても、30分なのに5個しか作らないとかね。昔は、作りまくってあげないといけないと思ってた。それが「観せる」に変わってたから。「楽しませれば別にあげなくてもいいんでしょ?」って最初に聞くんですよ。「これはあげることが目的ですか? 楽しませることが目的ですか?」。それで、「楽しませる」だったらやるけど「あげる」だったら、ボクじゃなくてもいいですよって。それはすごい考えましたね。ボクだからできること。「他の人が出来るんだったら他の人がやってください」って。

Q、「楽しませる」だったらロシアで学んできたことが活かせるんですものね。

来た仕事に対しての捉え方が変わったってことですよね。これは震災が大きかったですよ。震災があって被災地に行くことになった時に、ボクはBPZOOMというフランス人とアメリカ人のコンビがやっているワークショップに出て、今でもボクは作品を作ったらこの人たちに送って意見を聞いたりするんです。その人たちは、ホスピタルクラウンもやってるんです。だから被災地に行く時に意見を聞いた。そしたら「風船をあげてもあなたがいなくなったらその子は風船を膨らませないから何も残らない。でもあなたが楽しみ方を教えたら、あなたがいなくなってからもその子は楽しみを見つけることができる。あなたがいなくなった後に何を残せるかを考えなさい」って言われた時に、ああ、そうか。だから今は「モノがなくても遊べるよ」とか、ジャグリングじゃなくても「一個のボールで遊ぶるよ」という方に興味があるんです。


ここからクラウンYAMAさんは、児童演劇の世界に入ってきます。それはロシアクラウンによるセリフ劇への挑戦でもありました。私もここから直接YAMAさんと交流がスタートするので、ここからはQ&Aではなく、対談形式で進めていきます。

このまま児童演劇との出会い。そしてセリフの世界へ』に続きます。
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