韓国観劇ツアーノート5 ※Facebookから再掲載
ベイビーシアターの必要性についてこれまで「赤ちゃんにとって」「お母さんにとって」という視点からみてきました。
最後は「社会にとって」という視点から考えてみようと思います。ベイビーシアターは社会にどんな影響を与えうるのか。
目次
【あなたはあなたのままでいい〜ベイビーシアターが自己肯定感を育む〜】
前々回の記事をシェアしてくださった方が紹介文の中に「あなたはあなたのままでいい」という言葉を添えてくださっていました。これ、本当に共感します。
おそらくベイビーシアターに関わるアーティストたちが一番大切にしているのがこの感覚ではないでしょうか。
と同時にアーティストたちが一様に嫌う言葉があります。
「教育(education)」です。
ジャッキーもダリアもベイビーシアターと教育を全く別物として捉えています。ジャッキーにいたっては稽古場でことあるごとに「I hate!」と叫んでましたからね。すぐに日本語を覚えて「きょういくてきえんげきわたしだいきらいっ」に変わりましたが。笑
でもこれ、面白くないですか?
ジャッキーは世界の第一線で活躍する脳神経学者なんですよ。ジャッキーの目指すベイビーシアターは脳科学に裏付けられた赤ちゃんの成長のためのものです。でもジャッキーはその活動を「教育」とは呼ばない。
じゃあ、教育って一体なんなんだろう?
この疑問がベイビーシアターが社会にとってどんな意味を持つのかを考える一つのヒントになりそうです。
しかし、いきなりその疑問には飛び込みません。
まずはボクがプチョン市ベイビーフェスで見たあの瞬間を元に、「あなたはあなたのままでいい」の「あなた」とは、具体的に誰を指しているのかを考えてみたいと思います。
は? あなたはあなた。つまり赤ちゃんのことだろ?
はいそうです。でももう少し解像度を上げて「あなた」というものを捉えてみましょう。
そこに自己肯定感の秘密や、教育への違和感の正体が隠されていると思います。
【あなたって誰?】
あの瞬間とは、ジャッキーのレクチャーの時のことです。
ノート2でも紹介したのですが、レクチャーの最中に1歳位の女の子がジャッキーの方にトコトコ歩いて行ったんですね。ジャッキーはそれを制することなく思うがままにさせて、その子が自分からお母さんのところに帰っていくのを見守っていました。その時、ジャッキーはお母さん達にこう言いました。
「この子は邪魔をしに前に来たんじゃありません。床面の感触を確認しているんです。ほら見て。ここは床に敷いたシートが2つ折り重なってるから感触が違うでしょ。そのことを確認してる。あら満足したのね。そしたらほらお母さんのところに帰っていく。またね〜」
韓国語だったので、本当は何を言ってるのか全然分かっていないんですけどね。笑
でもボクにはハッキリとこのように聞こえました。なので、ジャッキーはこう言っていた、ということで話を進めさせてください。いい加減ですね。でもまあ、ここは裏を取らなくてもいいところかと。
続けます。
もう少し状況を説明しておきますと、その部屋の床面には緩衝シートが敷いてありました。床は真っ白で柔らかくて温かかった。シートは90センチ幅でしたから折り重ねてテープで止めていました。ですからその付近が重なって少し膨らんでいたんです。踏むと確かに感触が違う。
女の子は、初めて見る白いホワホワした床面を自分の足の裏のセンサーをフル稼働させてどんどん確認していきました。それはそれは楽しい時間だったでしょう。やがて感触が違うところがあるのを発見します。
「ここ……なんか……違うっ。じゃあ、あっちはもしかして‥…やっぱり。全然違う!」
これは女の子にとって世紀の発見でした。もう嬉しくて仕様がない。そしてくるっと踵を返してお母さんに体いっぱい抱きつきました。
ジャッキーはこの一連の行動を見守っていたんです。まさに「あなたはあなたのままでいいんだよ」と言っているようでした。
そしてボクはこの瞬間に、「あなた」が一体何を指しているのかが分かったのです。
「体だっ!」
ジャッキーは、足の裏から世界を認識していく女の子の体を尊重していたんです。足の裏から伝わってくる感触。それが信号となって脳に送られる。ほどよい反発の感触は、女の子の脳内で快感として認識されたのでしょう。
「もっと踏もう!」
脳は再び指令を出します。足はさらに床面を踏みしめる。すると感触が変わった。すぐさま脳に報告。
「どういうこと?」「もっと情報を!」「ラジャ!」
脳内の緊急会議と並行して足は、どんどん進んでいきます。そしてジャッキーの前に躍り出た。
一見フラフラ前に出たかのように見えた女の子の行動には全て意味がありました。細胞レベルでの変化があった。ジャッキーには、その変化が見える。だから見守ることができる。そしてここが肝心ですが、ジャッキーはただ見守るだけでなく女の子の発見の喜びに自身の感情を同期させて一緒に喜びました。ちょっと冷や冷やしていた女の子のお母さんもホッと一息。この直後、大冒険を終えた女の子が笑顔いっぱいお母さんに抱きつきます。優しさが波のように会場全体に広がりました。
【自己肯定感の秘密】
あなたはあなたのままでいい。
それはつまり、その人の体に内包された成長の営みを見守る姿勢のことを言うのではないでしょうか。
そしてボクは、自己肯定感の秘密も同時に見た思いがしました。
自己肯定感とは、他者と自分を比較して得られるものでもなければ、自身に課した目標に挑戦して得られるものでもない。確かにそれは大切なことではあるけれども、今我々が子どもたちに育んでもらいたいと願っている自己肯定感は、もっと素朴な生きる喜びそのもののはず。それは「夢を叶える」とか「社会を切り開く」とかそんな大それたものじゃない。もっと前段階の、体と脳のつながりそのもの。そこに芽生える感情……
本当の自己肯定感とはこの中にあるのではないでしょうか。
そう考えた時、これまで感覚的に捉えていた「教育への違和感」の原因がはっきりと見えた気がしました。そのヒントはやはり、赤ちゃんの体にあります。
これはとても大切な問題ですので、少し角度を変えて見ていきましょう。
AIについて。
【体が脳を作る】
大阪大学のロボット研究者である浅田稔さんは著書『ロボットという思想』(NHK出版)の中でこんなことを語っています。
“(人間は)自転車の乗り方を身につけるとき、最初はなかなかうまくいきません。いろいろ意識して考えながらなんとかぎこちなく練習を繰り返します。それが何度も転びながら練習を繰り返すうちに、いつしか自然と身体が乗り方を学習し、上手に乗れるようになります。このとき、脳の中に自転車を乗りこなすように身体を動かす回路ができたと考えられます。いわば、「身体が脳を作った」わけです。”
浅田さんは、この人間の特性を応用して「起き上がりロボット」を作った研究について紹介しています。従来のプログラミングベースではなく、ロボット自身が自らの失敗を元にデータを収集し起き上がるコツを会得する、という新しい試みです。するとどうなるか。応用の効く動きを習得するそうですね。そしてそれは人間の赤ちゃんが当たり前に行っていることなんです。
続いて浅田さんは「皮膚の重要性」についても言及しています。
コミュニケーションのコツを取得するために必要なのは、皮膚を通してやり取りされる触覚情報なんだそうです。
皆さんはこういう話を聞いてどう思いますか?
ロボットが人間にとって変わる日を想像して怖くなりますか?
ボクは逆ですね。こういう話を聞くと人間ってなんてすごいんだろうと思います。昨今、AIの発展はめざましく囲碁・将棋ともに人間はAIに勝てなくなりました。あと数十年でシンギュラリティが来るとも言われています。シンギュラリティとは、人工知能が人間にとって変わる日のことです。確かに脳のことだけを考えればそうかもしれません。しかし人間の脳は体とセットなんです。そして人工知能は体を持っていません。
この一点をもってしても、私は人工知能に対して不必要に怖がることはないと考えるようになりました。
それよりも、人間の脳は体とともにあるということについてもっと考えてみたほうがいい。そこにどんな秘密が隠されているのか。
【人間の赤ちゃんがゴリラの赤ちゃんより大きいワケ】
続いてゴリラの話です。
京都大学の山極寿一さんによると、ゴリラの赤ちゃんの生まれた時の体重は、1.6〜1.8kgだそうですね。人間の赤ちゃんよりもずっと小さい。しかしその成長は早く、5歳の時には体重が50kgに達するのだそうです。逆に人間の赤ちゃんは類人猿で最も大きな体を持って生まれてきますが、成長は遅い。これは、生後の成長エネルギーを脳の成長に割り当てるためだそうです。→https://youtu.be/EbHcDe2kpi8?t=750(山極寿一×関野吉晴 地球永住計画より)
我々人間の祖先は、900万年前にゴリラと共通の祖先から分かれ、700万年前にチンパンジーと共通の祖先から分かれたと言われています。
ただ、ここはちょっと注意が必要で、人間がゴリラやチンパンジーから進化して今の形になったわけではなく、「共通の祖先からそれぞれ進化して今の形になった」というところがポイントです。
早い話が、ゴリラはゴリラで完成しているし、チンパンジーはチンパンジーで完成しているということです。そして人間は約20万年前にホモ・サピエンスとして一応の完成をみた。
あ、生物に対して素人が「完成」なんていうとなんだか物事の本質を逃してしまいそうなので、改めて「一応の落ち着きを見た」と解釈しておきましょう。
とにかく重要なのは、人間の体は20万年前から変わっていない、ということです。
それは脳も例外ではありません。脳の大きさも変わってないのです。
これらのことをどう考えるか。
【ベイビーシアターが”教育”でないワケ】
ボクは、浅田さんのロボット研究の中で「体が脳を作る」こと、山極さんの言葉から「人類の体の進化は20万年前に一応の落ち着きをみた」ことに着目しました。
この二つは赤ちゃんの姿に結実します。
赤ちゃんは20万年前からずっと赤ちゃんなんです。体を通して脳を育んでいくように生まれついている。
つまり赤ちゃんは成長こそしていきますが、命としては完成している!
あ、完成って言っちゃった。まあいいや。笑
完成している命に対して、未完成な我々が一体何を教育することができるでしょうか。
赤ちゃんに対して我々にできることは赤ちゃんの自発的な学びをサポートすることであって、教育ではないのです。
だからベイビーシアターは教育とは別物なのです。
【文明<命】
ボクは先ほど「未完成な我々」という言い方をしましたが、これは人格のことを指しているのではありません。
教育の基盤となっている「文明」のことを指しています。
広辞苑では「教育」をこのように説明しています。
”教育…教え育てること。望ましい知識・技能・規範などの学習を促進する意図的な働きかけの諸活動”
知識、技能、規範の学習に必要なものってなんですか?
文字と数字ですよね。
ちょっと想像してみてください。教育の代表機関である学校から文字と数字がなくなったことを。
言葉は使ってもいいです。歌を歌ってもいい。踊りも踊っていいし、手取り足取り教えるのもよしとします。でも文字と数字は使っちゃダメ。
学校は成立しませんよね。学校というものは文明の上に成り立っているからです。
では質問。
その文明を構成する最小要素である文字と数字はいつからありますか?
諸説あるでしょうが、せいぜい1万年ですよね。
我々に身近な漢字の起源は王権の発生に関連すると漢文学者の白川静さんは言っていますし、数字の起源も狩猟採集生活を送っている人々の使う数字を表す言葉が「1、2……たくさん」であるところから見て、農耕による富の貯蓄と関係していることは間違いないでしょう。
つまり、文明は誕生してせいぜい1万年に満たないものなのです。
じゃあ人類の歴史は何年ですか?
700万年だと言われているんですよ。そしてそれが20万年前に一応の落ち着きをみた。
赤ちゃんはその体を持って生まれてきた命そのものの存在です。
未完成な我々が一体何を教育することができるでしょうか?
【ベイビーシアターが社会に必要なワケ】
いきなり文明そのものを否定するようなことを言ってしまいました。暴論ですね。説得力もありません。文字を使って文字を否定したんですからね。第一、ボク自身が文明の恩恵をたっぷり受けて生活をしています。否定できるわけないのです。
でも、ちょっと立ち止まってみる位はしてもいい。
文明が絶対ではないことを考えたってバチは当たらない。
韓国を旅行することで、かえって日本が見えて来るように、ボクたちは体で生きる赤ちゃんに接することで、文明そのものを客観視し、そこから社会問題の解決のヒントを得ることができるのです。
これが、ボクがベイビーシアターが必要だと考える三つ目の視点です。
ああ、やっと言えた。
一緒にベイビーフェスに行っていた劇団CAN青芸のアクター浅野佳砂音さんの言葉を借りたら一言だったんですけどね。浅野さんは言いました。
“子どもは良き方を知っている”
皆さん、長文にお付き合いくださりありがとうございました!
写真は、ジャッキーが演出・編曲を担当した赤ちゃんのためのコンサート終了後の様子。
※当初予定していた「ベイビーシアターと遊びの違い」「衝突なきもう一つのドラマツルギー」については長くなりすぎるため割愛しました。いつかまた別の機会に考察してみたいと思います。