韓国演劇史シャーマンの祭儀「クッ」について②ーシャーマニズムに見る俳優の本質ー

今回は、ムーダン(司祭)の立ち位置が社会の中でどのように変化していったかということを見ていきます。またムーダンと現代劇の俳優の違いを見つめ、これからの俳優に求められる能力についても考察していきます。もちろん「私の考える」という前書きが入りますが。

※表記について…名称の中には当然日本語の発音にないものもあります。(小)という表記は、その前の文字を小さく発音する事を意味します。
※2019年10月1日、大幅に加筆しました。

参考文献

  • (1)『韓国演劇史』ー伝統と現代ー
    徐 淵昊Suh,Yon-ho著
    伊藤好英・村上祥子共訳
    朝日出版社   2009年
  • (2)『朝鮮半島、インド、東南アジアの詩と芸能』アジアの芸術史文学シリーズ「上演編弐Ⅱ」より
    赤松紀彦編
    芸術学舎       2014年

演じ分け

韓国演劇史において、俳優たちが新しい現実認識と言語認識を基盤として具体的な生の問題を作品の主題とするかたわら、それを合理的な構造を通して写実的に表現しようとしたのは、1910年代のはじめのことである。この時から、故事成語と古典的な表現が加味された従来のチェダム(才談劇)は、日常的な対話を中心とした台詞劇へと、現場性を重視して自由に演じられてきた従来のノリパン(演戯場面)は、作品全体を論理的に構成した劇中場面へと、そして踊りと歌とサムル(辞説)を演じながら同時に劇中人物の役割をしなければならなかった従来の演戯者は、もっぱら劇中人物の役割だけを写実的に演技する配役へと、徐々に変化していった。(2)

このことから、ムーダンが劇中人物の一つの役割だけを写実的に演じていたわけではなく、様々な役割を演じ分けていた事を知ることができます。で、私はこの要素こそが今、俳優にとってとても大切な事だと思うのです。というのは、演じ分けるということ、あくまで観客の想像力に支えられてこそ実現することだからです。いや、もちろんその人の技術は必要ですよ。でもいくら声色や仕草や呼吸が変わっても、その人はその人です。身長も体重も年齢も変わりません。でもそれが変わって見える。老人や子どもに見える。男や女に見える。虎やウサギに見える。それはつまり見る人の想像力が働いているということですよね。ということは、俳優という役割は想像力の依代(よりしろ)になることだと言えます。しかし、今多くの俳優は本当にその人になりきろうとします。髪型を変え、化粧を変え、果ては体型まで変えてその役に自分を変身させてしまう。え? じゃあ観客の想像力はどうやって動かすの? って私は思っちゃう。私は前回、演劇が大衆から離れてしまった原因の一つに、舞台だけ明るくして客席を真っ暗にしたことと言いましたが、この演技論の変貌も大きく関わっていると考えています。というよりもこの二つはイコールです。いわゆる第四の壁理論ですね。でも第四の壁だけ外して、観客にはじっと観ててほしいというなら映画の方が優秀だと思うんですね。映画が写実主義を突き詰めて実現してくれました。今やCGの力でファンタジーの世界も「さも本物のように」見せてくれます。でもそれではこちらの想像力が動かない。想像力を動かすことに人間本来の喜びが隠れていることも前回の記事で書きました。恐怖心についてのくだりです。ですから、私は演劇は「さも本物のように」見せるのではなく、「嘘ですよ〜」と見せた方が広がると思うのです。嘘であることが分かっていてそれでもとめどなく広がる想像の世界こそがフィクションの力なんですから。だったら、俳優はなりきるのではなく演じるべき。ムーダンが「演じ分けていた」という事実も私はこの点から大変興味深く捉えました。そして映像が進化し、本物のように見せることが当たり前になった今、演劇の進むべき道はここにしかないと思うのです。つまり、ムーダンに学ぶことは人間の想像力の本質について考えることにもなれば、演劇と映像作品の差別化にも繋がる。そして何より少子化に伴う低予算化・作品の規模縮小化が止まらない児童演劇業界においては、一発逆転のアイデアがここに隠れている! 笑
いえ、本当は笑うところではありません。私は先日試演会で発表した『ガクモンの神様』の中でこの演じ分けを一つのテーマとしました。この作品は「三人芝居」が条件でしたが、登場人物を三人には絞りたくなかった。演じ分けの機会を作りたかったからです。子ども達に想像力を動かしてもらいたいからです。そしてそれが実現すればそのこと自体が劇的になる事を知っているからです。私はムーダンの演じ分けを観たことはありませんが、日本人ですから落語の演じ分けは知っています。落語は筋も面白いですが、一人の噺家が人物を演じ分けて世界を作りあげていくことそのものが劇的な要素ですよね。それって想像力の結晶だと思うんです。そしてムーダンの場合は、歌い、語り、舞い踊ったというそうですからこれはもう気になって仕様がない!

岩刻画に描かれた動物と仮面

次の写真と解説文をご覧ください。

写真 バンクデ岩刻画(1)

ウルサン(蔚山)広域市デコックリ(大谷里)にある「バンクデ(盤亀台)岩刻画」は、1971年に発見され、その後、ウルサンを代表する文化財であるのみならず、韓国の岩刻画研究においても重要な資料として高く評価されました。(中略)
岩壁に鹿、虎、猪などの陸上動物の姿と狩猟の場面、鯨、オットセイ、亀などの動物と各種人物像など75種類200点あまりが描かれています。この遺物は狩猟に出る前の祈願祭と狩猟から戻った後の楽しい感謝祭とを同時に連想させてくれます。岩刻画を刻することは、ムーダンを畏敬し、集団の安寧と豊穣を祈願して保護を受けようとする祈祷の儀式であり、そうした部族祭祀が展開されていたことを示唆するものでもあります。
特に興味を引くのは、岩壁に刻まれている、合わせて六つの仮面画です。この仮面は祭祀の主導者であるムーダンを表すもので、これは東北アジア先史文化の脈絡の一環であり、信仰的基盤はシャーマニズムが主流をなしているとみられています。裸で踊る姿や仮の場面が描かれている亀台岩刻画は、先史時代の人々の生活と風習を推察できる、最高の傑作作品だとして高い評価を得ています。(1)

動物と仮面の存在、これも大変興味深いことです。有名なフランス南西部ラスコー洞窟にも同じく動物が描かれていますよね。そして同じくフランス南西部レ・トロワ・フレール洞窟には、上半身が鹿のような動物で下半身が人間の絵が描かれています。これは一体何を意味するのか。漢文学者の白川静さんは、戯曲の「戯」の字源は、虎の皮をかぶった役者だと説明しました。洋の東西を問わず初期演劇は、仮面をつけて、動物を演じていたということです。私はこの夏に衝撃を受けた一つの芝居がありまして、それは、大阪を拠点に全国を回る野外劇団楽市楽座の『かもしれない物語』という作品ですが、終演後、代表の長山現さんからお話を聞かせてもらった時に言われた言葉がここで蘇りました。「神話の前には、動物の物語があったはずだ」。
楽市楽座の作品は、カエルの物語でした。クッの持つ力は現代でも作用しうるものなのです。いや、まだクッ観てないんですけどね!

そして仮面。日本の神楽も神事、舞楽、能にも仮面が使用されていますし、古代ギリシャ劇も仮面が用いられました。そして、私が南アフリカで見た地図では劇場のマークにも「仮面」が用いられたていました。おそらく劇場のマークとして仮面は世界標準的な記号なのだと思います。
演劇の起源に「人非ざるもの」の存在(動物・神)が関係していることは間違いなく、仮面がそのために用いられたということ。ボクは元人形劇団員としてここに「人形」がどう関係してくるのかということも気になっています。


南アフリカ・ケープタウンの劇場に使われた仮面のマーク 西上撮影

農耕とムーダンの関係

ここからは、農耕以後の社会変化の中でムーダンの立ち位置がどのように変化していったかという事をみていきます。まずは古代部族国家の社会の中でのムーダンの記述について……

農耕を行った青銅器時代の政治と宗教の指導者は、君長とムーダンであった。自然との葛藤を沈め、豊作を祈願するムーダンの社会的な役割は、この時代において絶対的なものであった。(中略)
稲作は莫大な労働力の集中が必要とされる。このような労働力と労働組織が必要なためにマウル(小)という共同体が形成された。(2)

「君長」というのは、日本の歴史でいうところの大王(おおきみ)のようなイメージでしょうか。さらに時代を下ってみましょう。

高句麗、百済、新羅時代のムーダン

古代部族国家の社会で、ムーダンは祭儀・占卜(せんぼく)・予言・治病・歌舞に特権と権威を持っていた。三国時代(高句麗、百済、新羅が並立した紀元前1世紀〜紀元後7世紀の時代)に入ってシャーマニズムの司祭権は徐々に弱まり、逆に王権は強化された。王は新しい政治理念として儒教・仏教・道教を受容した。特に仏教が盛行し、長い密教時代を経て公認されたのである。国巫、あるいは巫に関する記録は稀に現れるだけである。新興宗教とシャーマニズムとの習合が進んだ。とはいってもシャーマニズムが消えたわけではなく、個人巫は民間生活に入り込んで巫俗信仰として根を下ろした。(2)

私にも馴染みのある国の名前が出てきました。
「シャーマニズムの司祭権は徐々に弱まり、逆に王権は強化された」とありますが、ここでもう一つ気になる記述をご紹介します。

本来支配者側の側に位置していたムーダンが支配者から抑圧を受ける立場になって、国家的な行事から追われて民間信仰と習合し、底流する習俗として現在に至っています。特に儒教理念が社会の規範であった李氏朝鮮時代には、支配者の理念に反するものとされ、蔑視と抑圧の対象となり、ムーダンは賎民に位置づけられました。しかし、表面的には抑圧されましたが内々には宮廷や貴族の一部で巫が受け入れられ、巫の霊験が信じられ、また、民間生活に入り込んで根強い巫俗信仰として定着したのでした。(1)

これは、日本の芸能民が賎民として扱われてきたことにも通じるのかも知れないので覚えておきたいと思います。芸能史を紐解くことで部落差別をもっと立体的に捉え直す事が出来るんじゃないか、そんな予感もしてきました。

その後、高句麗や百済の記録では、ムーダンが王の病を祈祷で治癒したり、王に忠告をして殺されたりする事例が見られるようになります。さらに時代が下って高麗時代(10〜14世紀)になるとシャーマニズムと仏教の習合はさらに拡張されたとのこと。干ばつに対して300名近いムーダンが集まり祈雨祭が行われたという記録もあり、それはもはや国家行事です。儒学者との対立についての記述もありました。

儒教とムーダン

儒学者たちは巫俗を禁止するため、持続的にクッの儒礼化を推進した。これによって国家あるいは民間の多くの祭礼が儒教式に転換された。しかし、ムーダンの社会的な役割はそれほど変化することはなかった。1478年のソンヒョン上疏がこの事実を証明している。「禁止令が緩んでムーダンたちが城内に入り、婦女たちが飲食に莫大な費用をかけて厄払いをしたり病気祈祷などをやっています。権勢家たちも皆ムーダンを招いて淫乱な行動をしたり酔潰れるなどして恥をわきまえていません。それでも一人でもそれで罰せられたという話は聞いておりません。巷と四大門内にチャンゴと笛のリズムに合わせた歌や踊りが絶えることがなく、民心がとても乱れています。」(中略)
ムーダンは国の治療院である東西活人院に配置され、患者を見たり上下貴賎を問わず治病のクッを行ったり産婆の役割をしたりした。町のタンジェ(堂祭)とか個人の供養の折にも必ず呼ばれた。東北アジア便の原始的な基層宗教であるシャーマニズムは、仏教主導の三国時代と高麗時代、儒教主導の朝鮮時代にも、妥協と折衷を重ねながら根強く生き残った。個人的な安寧と蓄財、出世を祈る民衆的真理がシャーマニズムを持続させた要因であった。(2)

この辺りをもっと正確に知るためには、もっと朝鮮半島の歴史について学ぶ必要があるでしょう。というわけでこの辺りはそそくさと進みます。汗
そしてついにムーダンの歴史に日本国家が直接介入する時代がやってきました。

朝鮮総督府とムーダン

植民地時代、朝鮮総督府のムーダン弾圧は宗教戦争の性格を持っていた。ソウルのナムサン(南山)に位置していたクゥサダン(国師堂)を西のイヌァンサン(仁王山)に強制移住させた措地がそのような側面を証言している。クゥサダンは朝鮮時代のムーダンたちが国家的なクッをしていた祠堂出会ったが、1925年に仁王山に移された。総督府はその場所(ナムサン)に神道のための神宮を建てた。そして、ムーダンたちの神堂には日本の天照大御神を上位に置き、その下に韓国巫神の神位を並べるように命じた。同時にムーダンたちは、総督府が発行した登録証をチャングにぶら下げないとクッをすることができなかった。ムーダンに対する抑圧と歪曲は総督府だけではなく、同時代のキリスト教宣教師によっても強行された。(2)

 

私は、韓国の友人に、「韓国の伝統的な演劇が観たい」と相談したことがありますが、友人からは「韓国の伝統芸能の多くは、朝鮮戦争で滅んでしまった」と言われました。私はその時、韓国のトッケビ(日本の天の邪鬼のような存在)を題材にした物語を書いていたので、朝鮮総督府については多少は調べていました。しかし、その朝鮮総督府が韓国(朝鮮)の伝統芸能をも管理下に置こうとしていたことには想像をめぐらせることはできませんでした。クッについて学ぶことが国際政治問題にも関係してくるとは夢にも思っていませんでしたが、考えてみれば当然のこと。自分の想像力のなさ、不勉強を少しずつ改めていきたいと思います。

最後は駆け足になってしまいましたが、次回は現在のクッについてみていきたいと思います。CDで聞ける音源についてもご紹介いたします。

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