子どもはどうしてあんなにウンチが好きなの? 人形劇を通して感じた不思議を「糞土師」と「文化人類学者」にぶつけてみると……

Twitterでウンチとの別れを惜しんで泣く子どもの動画を観て考えたことです。

目次

子どもはウンチが大好き

まずはTwitterに投稿された「MINAMI NiNEスケロク」さんの動画をご覧ください。

とっても微笑ましい動画ですね。でもこの子はどうして泣いたのでしょう? ウンチと別れるのが寂しいから? なぜ寂しいんですか。ウンチは排泄物ですよ。その排泄物とも親密な関係になれるのが子どもの力。きっとそうでしょう。じゃあそれってどんな力なんでしょう?

これ、実はボクもこの数年考え続けていることです。今度はこちらの動画をご覧ください。

『はれときどきぶた』人形劇団ひとみ座

これは2018年に人形劇団ひとみ座と一緒に作った『はれときどきぶた 』(原作:矢玉四郎)の一場面です。ボクは脚本と演出を担当しました。
動画の最後、ウンチを見つけた女の子が立ち上がって歩き始めてますね。顔が見えてしまうので動画はここで終わっていますが、実はこの女の子、ウンチを拾い上げて後方のお母さんに向かって高々と掲げるんです。「取ったよ〜」って。満面の笑みで。

何もこの子が特別ウンチが好きなわけじゃないんです。どの会場でもこの場面では大体同じようなことが起こります。子ども達はみんなウンチが好きなんですね。

そんなこと知ってるよ。子どもは下ネタが好きってことでしょ?

う〜ん、それはちょっと違うんです。確かに下ネタといえば下ネタなんですが、下ネタという言葉に内包される下品な要素が子ども達の反応には全くないんです。もっと朗らかで健康的な感じ。

でもこれを作ったボクの方も実はこの作品を作るまでは、ウンチやおしっこを作品内で出すという事には反対でした。ボク自身下品な行為だと思っていたんです。そういうことをする同業者を軽蔑していたくらいです。でもそれが180度変わった。それはなぜか。こんな言葉と出会ったからです。

赤ちゃんの時から子育てにかかわった人ならわかることだが、子供がりっぱなうんこをすることは親のよろこびだ。
「わあ、いいうんちでたねえ」と、親は子供をほめてきた。
それが、学校へ上がったとたん、いけないことのようにされてしまう。

『心のきれはし』矢玉四郎

これは、『はれときどきぶた 』の原作者である矢玉四郎さんが、日本の教育界を憂いて書いたエッセイの中の一節です。その項目には「学校でうんこしよう」というタイトルがつけられています。

ポプラ社

男子は学校でウンチがしづらい

ボクは、この部分を読みながら、小学校3年生の時のD君を思い出していました。D君はボクの同級生で学年一番の運動神経を持つスター的存在でした。でも、ボクはある朝見たんです。自分たちの校舎とは反対の校舎のトイレにわざわざ出かけていくD君の姿を。ボクはすぐに勘付きました。D君はウンチをする気なんだって。矢玉さんもこの本の中で書いていますが、小学生男子にとってトイレでウンチをする事はとても危うい行為なんですね。個室に入るところを見つかれば後で何を言われるか分からない。もちろんボクはD君に何も言いませんでしたよ。だってボクもウンチをしにその校舎まで出かけてたんですからね。

学校でウンチはタブー。でもある年齢まではウンチは喜びに満ちた命の営みだった。矢玉さんはこう書いています。

一個の人間としての生理現象と、学校という公の社会との激突によって、子供の精神はずたずたにされる。

はれぶたで命の喜びを描きたかった

ボクは『はれぶた』を通して、子ども達の存在を丸ごと肯定したいと考えるようになりました。そしてこんな脚色案をノートに記します。

モーニングAセットを食べてますね。のんびりとおおらかな気持ちで書いたのでしょう。あと、この頃は矢玉さんの影響で「子供」と書いています。今は「子ども」です。でもまあこれはそんなに信念があってのことではありませんので無視してください。(笑)
とにかくボクは「ムダ」の中に子ども達の「想像力」を、人形の「体」に「命の営み」を描こうと決めました。そしてその体のシンボルこそブタのウンチでした。

ボク達は「じゃあ本物の豚のウンチを見にいこう!」と、豚と直に触れ合える動物園を探して千葉県市川市動植物園に行きます。

ちゃんとウンチにも触ってきましたよ。意外に弾力がありましたね。この頃からボクは「ウンチと正面から向き合うぞ!」と宣言するようになり、メンバーと試行錯誤を重ね出来あがったのが先ほどのウンチの場面です。どうです? 本当にウンチと正面から向き合ったでしょう?

別公演の動画も見つかりましたので、この場面もう一度ご覧ください。え? さっき見たからもういい? いやそうおっしゃらずに観客が変わればもうそれは別の作品ですから。

いいですよね〜
最後中に入って来ちゃう子もいましたが大丈夫。あの子は落ちたウンチが見たかっただけですから。自分の体の欲求を満足させたらスッと席につきました。さっきの女の子みたいにウンチを拾い上げても問題ないんです。この後主人公がウンチを掃除しに舞台の前に出るんですが、「あれ? ウンチない」って言ったら、子ども達はすぐに持ってきてくれますから。

こうしてこの場面は、ボク達の大好きな場面になりました。子ども達本来の好奇心や優しさが体いっぱい発揮されています。すると観ている大人も元気になる。そんな関係を理屈抜きで作り上げるって、ウンチってすげえ!

でも正直ここまで生き生きした反応が返ってくるとは思ってなかったんです。ボクはこの場面を楽しみながら、同時に「子どもとウンチの関係」をもっと深く考えてみたくなりました。そこで、日本でウンチと言えばこの人、という方に質問してみたんです。

糞土師 伊沢正名さん

ご存知の方もいらっしゃるでしょうか? 糞土師こと伊沢正名さんという方を。伊沢さんは1974年より信念を持って野糞を始め、21世期に入ってからはほぼ100%野糞を実現されている方です。著作も多く、ボクはこちらを読みました。

ヤマケイ文庫

突然「糞土師」や「野糞」と聞いてもびっくりされると思いますが、伊沢さんはとても真面目な方で、エコロジーを真剣に考えた結果、野糞にいきつき、その野糞を思想にまで昇華して黙々と実践されている、というものすごい方なんです。

野糞が思想とか危なっ!

と、思った皆さん。伊沢さんから言わせれば危ないのは野糞をしない我々の方です。伊沢さんは言います。「皆さん自然は大切だとおっしゃるけど、では自然のために何かお返していることありますか?」

この質問に答えられますか? 花に水をやってるなんてダメですよ。それはあなたが見たい花にすぎないんですから。伊沢さんからすれば肥料のために自分のウンチを使うのもダメです。それも結局は自分が食べるための行為なので、自然のためではないんです。
伊沢さんがおっしゃるには、我々が自然にお返しできるものは、ウンチと自分の体、つまり死体だけなんです。この二つだけが他の生命の食べ物になる事ができる。でも現代人はこの二つを自然に返すことを放棄してしまいました。ウンチはトイレで流し、遺体は火葬場で焼く。それでは自然界の命の連鎖から外れてしまう。自然からありとあらゆる命のエネルギーをもらっておきながら人間だけが何もお返しをせずに死んでいく、人間はエゴの塊だと伊沢さんはおっしゃいます。誰か反論できますか? その辺の宗教者や哲学者なんて木っ端微塵に吹き飛ぶ本物の思想だとボクは思いました。で、「この人しかいない。子どもとウンチの秘密を語れるのは!」と思って質問したんです。

子どもはどうしてあんなにウンチが好きなんですか?

その時の動画がこれです。

地球永住計画〜賢者に聞く〜より

画面向かって左側に座っているのが伊沢正名さん、右がこのブログでも度々ご紹介している探検家であり文化人類学者の関野吉晴さんです。関野さんは、アフリカに誕生した人類がアメリカ大陸まで拡散したグレートジャーニーと呼ばれる足跡を自身の腕力と脚力をたよりに逆から辿り、その旅の中で人間はどこからきたか、そしてどこへ行くのかということを考え続けたものすごい方なのですが、その関野さんが「すごい人です」とご紹介されたのが伊沢さんだったんです。これは「地球永住計画」という市民講座の中で行われた対談で、ボクは対談後の質問コーナーでさっきの質問をしてみました。その答えがやっぱりすごい。詳しくは動画をご覧いただければ出てきますが、こちらにまとめてみます。

二人の賢者の回答

伊沢さんのご回答

  • 子どもはウンチを自分の分身と捉えているからではないか
  • 老人のウンチは健康のバロメーターなので別物
  • だから子どもは、生き物としてウンチを捉えている

それを受けて関野さんのご回答

  • 同じくウンチを分身と考える民族がエチオピア南部に住んでいる
  • そこで診療をすることになった(関野さんは医者でもある)
  • 多くの村人にアメーバ赤痢の疑いがあった。検便が必要
  • しかし誰もウンチを持ってこない。最初は恥ずかしがっているのかと思ったが、そうではなかった
  • 村人は呪いをかけられることを恐れていた
  • 医者は現地では白魔術師。ということは黒魔術も扱える
  • 村人は自分のウンチに呪いをかけられてはかなわないと考えた
  • つまり、彼らにとって出たばかりのウンチは自分の体の一部(分身)
  • もう一つ、ウンチ=臭いは文化(後天的)なものなのではないか
  • 乳児はウンチまみれで遊んでも気にしない

この赤ちゃんがエチオピアの例か、関野さんが長年付き合いのあるアマゾン、ヤノマミ族の例かは不明

伊沢さんの付け足し

  • くさやや納豆は好きな人にはいい匂い。嫌いな人には悪臭。その人の好み
  • これは全てに言える。善悪もそう。私は善悪の判断はやめた

と、こんな形で続きました。いやあ、すごい! ウンチは自分の分身。注目すべきは、エチオピアで「呪い」が今なお作用する土着的な生活を送っている人々と現代日本の子ども達の身体感覚が同じである、ということです。関野さんはウンチ=臭いは後天的に教えられた価値観とおっしゃいましたが、子ども達は先天的にはウンチを自分の分身もしくは友達だと思っている。

これが、「どうして子どもはウンチがあんなに好きなの?」の一つの答えなのではないでしょうか。

だからなんなの? 私たちも野糞をしろって?

違います。そこまで極端なことは言ってません。我々は都市に生活することを前提に社会を形成しています。ですから、何もそこまですることはありません。でも、矢玉さんがおっしゃるように子ども達の方が、大人の形成した社会のルールと命の営みの間に板挟みになっていることは理解してあげるべきだと思うんです。

人形劇のウンチの場面での子ども達の元気を思い出してください。その時、大人はどんな反応をしていましたか? ボクは子どもの中に今も息づく体の力が、頭でっかちに社会を作り続ける大人のバランス感覚を是正してくれると思っています。子どもは大人に教育される存在ではありません。一緒に世界を作っていってくれるパートナーなんです。そしてウンチがその秘密を握っているんです。

長い投稿になりました。言葉で説明すると、こんなに長い文章になってしまいます。でも冒頭にご紹介した便器の前で泣く子はもっとシンプルに訴えていました。最後にあの子の動画の続編を貼って、この投稿を終わりにします。お父さんが閉じようとした便器の蓋を跳ね除けるこの力。この力が未来を作ると思いませんか?

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