『オイディプス王』を読む1/6(演劇史考11)

長らく続いた演劇史考シリーズもいよいよ大詰めです。最後は、ギリシャ悲劇の代表作といっても過言ではない『オイディプス王』を取り上げます。

ただ、作品を読んで感想を書くだけでは面白くないので、このテキストが実際にどのように演じられたかという事を、自分も当時の観客になったつもりで想像しながら観ていこうと思います。時には、これまで勉強してきた資料の内容と食い違いが生じるかも知れませんが、そこはどうかご勘弁を。「諸説あり」と、ゆるやかな気持ちでお菓子でも食べながら読んでいただけたら幸いです。この作品が上演されたであろう紀元前430年頃のアテナ市民たちも飲食しながらこの悲劇を観たわけですから。

目次

はじめに…

今日の記事で『オイディプス王』を最後までを追いかける事はとても出来ません。ですので劇の進行に沿って記事を数回に分けます。当時の芝居には「幕」がありませんから、シークエンスを分ける時は「〇幕〇場」と言う言葉は使わず、このように呼び分けていたそうです。

  • プロロゴス(序章)
  • 第一エペイソディオン
  • 第二エペイソディオン
  • 第三エペイソディオン
  • 第四エペイソディオン
  • エクソドス(終章)

今日は、序章プロロゴスまで。
正確にはこれらのあいだに、「パロドス」「スタシモン」と呼ばれるコロスの登場場面が挿入されるのですが、それについてはその都度紹介することにします。
ではこれから、紀元前430年(注1)に発表されたというソフォクレス作『オイディプス王』の上演を観ていきましょう。さあ、「パラドイ」をくぐって観客席へ…

出典…『図説西洋建築史』彰国社21ページ

※当時の観客席の雰囲気を知りたい方はまずこちらの記事をご覧ください。チケット代は無料!? 古代ギリシャで観客はどのように演劇を観ていたかー演劇史考7ー

開演前のイベント

いきなり芝居は始まりません。この演劇祭(大ディオニュシア祭)は、演劇と酒の神ディオニソスを祀る儀式であり、また国家行事でもありますから演劇を観る前にいくつかのイベントがあるのです。

  1. 生贄(山羊)のお供え…悲劇「tragedies」の語源は山羊の歌という意味がある。
  2. 武勲者の表彰…当時のアテナでは戦争が繰り返されていた。演劇祭は外国からの特使を招いての国威発揚の場でもあった。

他にも、演劇祭を取り仕切る執政官(アルゴン)からの挨拶などもあったでしょうし、合唱管理者(コロスのプロデューサー的存在、富裕層)から振る舞われる酒も回って来たでしょう。ただ飲み過ぎてはいけません。今日だけで悲劇3本+サテュロス劇(ディオニソスを祀る滑稽で猥雑な笑劇。喜劇とは別)を観るわけですから。さあ、いよいよ開演時間が近づいてきました。最後に司祭、執政官、外国からの使節団が席に着くのを待って開演です。

開演

『オイディプス王』の最初のト書きには、

テバイ(ギリシャの地名)のオイディプスの宮殿の前。中央の大扉に向かって祭壇。その周りに老若のテバイの市民たち、嘆願のしるしとして、白い羊毛の房のかざしを巻いたオリーブの枝をささげ、ひざまずいている。

と、あります。この市民たちとはコロスのことですね。そしてこのト書きの後にオイディプス王が登場します。普通に読んでいたらこんなト書き、サラッと読み飛ばす所ですが、それはいけません。コロスを演じるのは、我々市民の代表。一年間、この晴れ舞台のために稽古を積んだ仲間たちです。全員が仮面を付け、この芝居の為に仕立てた衣装をまとっています。息を呑んでその登場シーンを見守りましょう。

 

やがて、突然笛の調べが聞こえ始め、さしもの大群衆もたちまち鳴りをひそめると、合唱団の行列が幻想的な輝かしい美装で、唱い且つ踊りながらオルケストラへ現れる。『世界演劇史』 カール・マンツィウス 著 飯塚友一郎 訳 平凡社1925年284p

一糸乱れぬ15人コロスの円舞がバッチリ決まったところでいよいよオイディプスを演じる第一役者の登場です。

主役登場?

オイディプスを演じる俳優は、我々やコロスがくぐったパラドイではなく、スカエナの扉よりプロスケニオン(舞台)に登場しました。厳めしい悲劇の面を被っています。その第一声に耳を澄ませましょう。

オイディプス       我が民らよ、遠き父祖カドモスのはぐくんだ、後裔(すえ)なる子らよ、いかがいたしたのか。かざしをつけた嘆願のしるしの小枝を手に手にささげ持って、そこにそうして座っているのは?

我々はここで一瞬耳を疑います。聞こえて来た台詞の声の主が、作家ソフォクレスと供に数々の名作を作って来た第一役者トレポレモス(注2)のものではなかったからです。勘のいい観客が、オイディプスを演じているのは、第二役者アドニス(注3)であることに気がつきました。会場がどよめきます。
「あの声はアドニスだ。」
「トレポレスモスはいないのか?」
「楽屋にいたぞ。」
「オイディプスじゃないのか?」
「じゃあトレポレスモスは何役だ?」
「他に何の役があったっけ?」

元ネタ

ギリシャ悲劇には元ネタがあります。『オイディプス王』の場合は、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』の中にオイディプス王の伝説を伝えた詩があります。「他に何の役があったっけ?」と聞いた若者に、物知りな老人は詩を諳(そら)んじ、答えてあげた事でしょう。

またわたしは見た、オイディプスの母 美しきイオカステを。
何も知らぬ心で 自分の息子の妻となるという おそろしいことをしてしまった女(ひと)…

「イオカステ役だ!」 若者は思わず叫びました。
実はオイディプスの長ゼリフはあと9行続いていました。そしてその後には、我らが市民の代表コロスの長が43行もの超長ゼリフを披露していたのですが、「トレポレスモスは何の役問題」が解決する前ではとても聞き取れませんでした。しかし、これも実は作家ソフォクレスの策の内。稀代の名役者トレポレモスを敢えて主人公から外すことで新たな悲劇の構造を作り出そうとしていたのです。27歳でギリシャ悲劇界に彗星のごとく現れたこの天才作家は、第三役者の投入、背景画の導入と、これまで幾度も改革を起こしてきたにも関わらず64歳になった今もまだ貪欲に新たな悲劇のスタイルを探求しているのです。
演劇好きのアテナ市民たちは、肌感覚でこの悲劇のスケールの大きさを感じ取ったのか、いまや扇鉢上に広がる客席(テアトロン)は、水を打ったように静まり返り、オイディプスと神官(コロスの長)、そして途中から登場した第三役者演じるクレオン(オイディプスの義理の弟)のやり取りに引き込まれて行きます。要約するとこんな感じ。

要約

  1. デバイの王オイディプスの元に市民たちが嘆願にやって来た。
  2. 嘆願の内容は、国土を荒らす疫病について。
  3. 聡明なオイディプスはすでに手を打っていた。義弟クレオンをアポロンの社につかわし、神託を受けて来るよう命じていた。
  4. クレオン登場。疫病の原因は、先王ライオスを殺した下手人の穢れであることが語られる。
  5. オイディプスはその下手人を探し当てるため自ら旅立つ。
  6. 嘆願を受け入れられた市民たちも退場。

とまあ、要約すれば7,8行で済むのですが実際には150行を要しています。この物語は全部で1500行なので、ちょうど冒頭の10分の1のところで、「状況設定」がなされた事になります。テンポの良さはハリウッド映画並みですね。いや、ハリウッド映画がソフォクレスから脚本術を学んでいるのでしょう。

テンポと接点

勿論テンポを生み出しているのは、劇の進行だけではありません。最初オイディプス、神官と長ゼリフでゆるやかに始まったこの景もクレオンが登場してからは、1,2行の短いやりとりに変化します。
神託→国に巣食った汚れ→罪びとの存在→流された血→先王殺害→その下手人→ライオス殺害現場の謎、といったように疫病の元凶がオイディプスとクレオンの短いやり取りによってテンポの良く究明されて行きます。この場面が今日の視点から見れば「やや説明的なセリフ」であることは否めません。しかし、当時は第二俳優制度が生まれてからまだ数十年しか経っていません。つまり「対話」そのものが生まれてからそれだけしか経っていないにもかかわらず、日常言語に近い言葉が演劇の中に取り込まれているのです。「俺達の言葉だ…」この日常との接点は、観客に鮮烈な驚きと親近感を与えた事でしょう。
「これは俺達の物語なんだ」という感覚は、台詞術によって伝えられるだけでなく、「疫病」というこの物語の状況設定そのものでも示されました。当時のアテナでは疫病が蔓延していたと解説に説明があります。ソフォクレスは、オイディプス伝説の中に当時の社会問題を溶かし込んでいたのです。オイディプスが探し求める先王殺しの下手人とは、オイディプス自身である事は、多くの観客があらかじめ知るところです。しかし、このように観客と接点づけられる仕掛けによって、物語は新たに力を持ち、現在進行形として立ち上がるのです。この辺りから観客はもう食い入って演者を追いかけていたことでしょう。

さあ、我らがオイディプスは旅立ちました。今回の記事はここまで。次回は「第一エペイソディオン」に入っていきますよ。最後までお読みいただきましてありがとうございました!

注意書き

注1 ソフォクレスが『オイディプス王』を書いた年代については、翻訳者 藤沢令夫氏の解説を参考にしています。
注2 ソフォクレスとタッグを組んでいた第一俳優トレポレモスについては、「ギリシャ・ローマ演劇史第一巻(ギリシャ演劇史概説)」新関良三著 東京堂 昭和33年 を参考にしました。
注3 第二俳優アドニスは実在しません。筆者の想像上の人物です。第二俳優がオイディプスを演じたということ自体、筆者の想像で進めている事をここにお断りさせていただきます。明らかな間違いなどがございましたらご指摘いただければ幸いです。

 

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