いきなりインタビュー:クラウンYAMAさん① 「将来の夢は乞食!」の子ども時代から、言葉が分からないまま飛び込んだロシア留学時代まで

クラウンYAMAさんに念願のインタビューが出来ました! まずは前編(約1時間)です。

話し手:クラウンYAMA
聞き手:西上寛樹
時:2020年7月20日
場所:芸能花伝舎

クラウンYAMA
派手なメイクではない。派手な衣装でもない。だからこそ表現できるロシア流クラウン。
近年は、『空の村号』『ちゃんぷるー』などに俳優としても出演し児童演劇界にYAMAちゃん旋風を巻き起こしている。
→公式サイトhttp://balloon-circus.com/yama/

目次

はじめに

今回のインタビューは、YAMAさんの告知がきっかけにはなっているんですが、元々やってみたかったことなんです。演劇がずっとやってきたことって言葉を先行させることでした。でもYAMAさんは体が先行しているような気がするんですね。そのYAMAさんが『空の村号』や『ちゃんぷるー』という作品に出演することになって言葉の世界に来た時に、他の人の演技の仕方というか観客に対するスタンスそのものが全然違っていたような気がするんです。それはおそらく「第4の壁理論」と関係することだと思いますが、このことをYAMAさんと話すことで具体的に考えてみたかったことが一つ。もう一つはYAMAさんがロシアで出会った先生との関係です。人から人に何かが受け継がれる時の関係ってどんなものなんだろうということも考えたい。でも時系列に沿って伺っていきたいので、最初はやっぱり子ども時代の頃からお願いします。

子ども時代のことを教えてください

基本的には、目立つことが好きでしたよ。でも何かやってって言われるとやらないタイプです。小学校の時は4年生ぐらいから学級長みたいのがあるので、4、5、6年とやって、中学校も1、2年とクラス長みたいなのをやって、3年生の時に生徒会長をやって。

Q、全部立候補ですか?

はい。中学は1年生の時から会長立候補でしたからね。ウチの学校、1年生でもとりあえずは立候補を立てるみたいなところだったんです。だから1年生の後期から立候補、2年生の前期後期も立候補、3年生の前期も立候補で全部落ちて、もうみんなが可哀想と思ったんじゃないですか。3年生の後期に会長になった。
目立つことが大好きだし、喋って親が喜ぶのが大好きだったので、外であったことを全部家で喋る。で、家であったことを全部外で喋る。だから親は家の出来事を全部保育園の先生が知ってるから恥ずかしいって言ってました。本人は記憶ないんですけど。(笑)
でも、それは今でも変わりません。外であったことを全部家で奥さんに話す。今日こんな人とこんなことあったよ。で、奥さんが話そうとすると満足してるから、もう聞いてない。それは変わらなく、外であった楽しいことを人に喋る。家族を楽しませたいっていうのが基本でしたね。それで人が笑うことが好きだなあって。

Q、小学校中学校と人数はどれくらいだったんですか?

小学校は4クラス。中学校だと10クラスくらい。地域で集まるから大体みんな知ってる人なんですよ。でも高校は、広い範囲で市全体からも市外からも来る。そこで静かになった記憶はありますよ。面白い奴いっぱいいるんだーと思って、対抗心はなかった。このクラスの盛り上げ役はこいつでいいな、とか。意外とポジションは見る。こいつが休みの時には自分が出るけど、来たら引くとか。(YAMAさんは愛知県岡崎市出身)

Q、目立ちたがりだけど、自分を見て見てというのとは違ったということでしょうか?

見て見てもあったけど、もっと面白い奴がいて、目立たないんだったら出て行かないっていう判断だと思います。争って勝てるんだったら出ていくけど。負ける試合はやらない。

Q、習い事はしてたんですか?

何もしてないです。まだ塾とかみんなあんまり行ってない時代だったと思うんですけど、水泳とか書道とかはみんなやってるけど、ボクはやってなかった。学校から帰ってきたら川に遊びに行ったり、山行ったり、遊びまくりで、親にも言われたことないですよ。

Q、お兄さんは何かしてたんですか?

5つ上の兄は、書道と算盤はやってたような気がします。(YAMAさんは二人兄弟)
でもボクはずっと遊んでた。次男のいいところじゃないですか。ボク将来の夢が乞食で、兄が社長になって食べさしてもらうことだったんです。お兄ちゃんはすごいんだよって、ずっと尊敬してて、だからお兄ちゃんが社長になって、ボクは食べさしてもらうっていう。小学校低学年の時。もう、働かないって。兄のことが好きだったし、兄はすごい人だと思ってたから、兄がすごい人になるならボクは食べさしてもらうっていう。

サラリーマンには絶対ならない

ボクは、学校は休まないで皆勤賞だったんですけど、「毎日通うのは学生時代まで」って決めてたんですよ。だから、サラリーマン絶対やらないって。嫌なことがあったわけじゃないんですけど、こんな真面目に同じところに通うのは学生時代でおしまいって決めてたので、高校卒業して東京来て、ほぼずっとこの世界。

Q、その決意は何歳ぐらいの時に?

中学校ぐらいだったと思いますが、記憶にはあんまりない。父親は、三菱の工場に勤めてたから毎日通ってはいるけど、スーツで通うタイプではなかったし、ちゃんと時間になったら帰ってきて、一緒にご飯も食べてって人だったので、サラリーマンが嫌だっていう印象はないんですけど、同じところに通うのが嫌だって思ってたんですね。

Q、部活はしてたんですか?

小学校はソフト。中学、高校とハンドボール部。
小学校の時、意外と強かったんですよ。全国大会行ったりとか。ボク左利きなので、右よりもちょっと有利。同じレベルだったら使われるっていう。でも中学校になったら野球になるじゃないですか。打球の速さが怖くなっちゃって、野球は辞めてハンドボール。
ハンドボール部は不良の集まりだったんですが、それがカッコよく見えたので入りました。そしたら兄は悪ではなかったけど、兄の友達の悪い人がいて、兄はその人と仲が良くて、慕われていたのか、他の先輩が「山本先輩の弟なの?」って、すげえ可愛がられて。ボク居やすかったです。不良の先輩たちに可愛がられて、何も怖がることなくぬくぬくと。ボクだけ楽屋(部室?)使わしてもらったりとか。兄のおかげで。そのまま高校もハンドボール部やってて。体動かすこと大好きだったんで。真面目でしたよ。やっぱりハンドボール部は不良の集まりなのか、高校になってちょっと雨降ると他のやつ来ないんですけど、ボクだけいるんですよ。先輩はボクしかいない。

Q、真面目に練習してたんですか?

別に後輩に指導はしないけど。練習の流れは決まってるので、一緒にやってるみたいな。だから偉いかどうかは分かんないんです。だってボク「のり君先輩」って呼ばれてましたもん。

Q、競争意識は持ってましたか?

さっきも言ったように、ハンドボールって左利きの方が楽なボジションがあるんですよ。左サイドは左利きの方がいいとか。そうすると、同じレベルだったら自分が選ばれてるとか、そういうのはすごい分かってました。実力じゃなく、俺左利きだから選ばれてる。本当だったらあの子がなった方がいいのになあって。でも右利きでボクが選ばれてる。だから頑張んないとな、実力でも補欠の子より上にいかないとっていうのはあったけど、他に「負けない!」っていうのはあんまりなかった。

Q、対戦相手への負けん気はどうでしたか?

全然ないですよ。
ボク3年間のシュート決定率が7割超えるんですよ。すげえじゃんって言われるんですけど、確実な時しか打たないんですよ。他の人だと4割とか3割だけど、ばんばんエースとかは打っていくじゃないですか。だから数が多い。でもボクは確実な時しか打たないから通算7割入れてるけど、「お前少ねえよ」みたいな。(笑)
勝つ時しかいかない。今ここ出る時だな、とか。それは自然に読んでたんだと思います。
高校の時、一個上の先輩たちってすっごい弱かったんですよ。毎回一回戦で負けるチームだったんです。最後の試合も相変わらず一回戦で負けたんです。じゃあ、その時のキャプテンが泣いたんですよね。衝撃でしたよ。だって、毎回一回戦負けじゃんって思ってましたもん。でもキャプテンだけは号泣してた時、ああ、この人一生懸命だったんだなあって。ボクそういうので悔しくて泣くとか試合で負けて泣くとか無いんですよね。だから終わった時に泣けるほどのものを見つけたいなって。
なかなか難しいです。だって今だって舞台公演とかやっても、終わって打ち上げとかの時に、ボクの中ではもう終わったからもう次の仕事のことを考えようってなってるから、打ち上げで「あれどうだった」とか思い出話するじゃないですか。もう一切興味ないっていう。あんまり過去を振り返らない。終わったこと話してもしょうがない。次何やろうかなって。そう思うので、意外と切り捨てまでじゃないけど、どんどん先に進んでいくので、過去の思い出に浸ったりとかはない。だからその時出会った人とかも置いていくことが多い。中学校は中学校の友達。高校は高校の友達。出てきた時と出会った時と今の人と全然人が違ったりするんで。そこはなんかポンポン行っちゃうんですけど、熱いものを見つけたいっていうのはあったので、クラウンを見つけた時には、「あ、ボクはもうこれで生きていこう」って思ったんですよね。

人を攻撃しない笑いとの出会い

Q、クラウンとの出会いは?

元々は、小学校の時の漫才ブーム。「THE MANZAI」とかテレビでやって漫才ブームがあったので、もう5、6年生の時は乞食を辞めて漫才師になるっていうのが夢だったんです。今ちょっと違うけど、去年小学校の時の同級生がタイムカプセルを掘るっていうイベントがあったんですけど、ボクは行けなかったんですよ。じゃあ同級生が掘って、ボクのを見つけてそこに「大きくなったら漫才師になる。お笑いをやる」って書いてあった。それを写真に撮って「すごいね。今夢を叶えてるね」ってメールが送られてきたんですよね。だから、ああ、意外とその通りに来てるんだなあって。なので漫才ブームがあって、ずっときて、高校卒業して東京出てきた時に、その時はお笑いをやりたくて東京に来てるんで、1年くらいずっとお笑いライブとか出たりしてましたね。ライブハウスで。

Q、それは一人(ピン)で出てたんですか?

当時、一応演劇学校「舞台芸術学院」の夜間に通ってました。学校に行かないと親が東京に行かしてくれなかったので。そこは試験がなくてお金だけ払えば入れるっていう学校です。そこに「お笑いやりたい」って子がいたんですよ。だから二人で組んで、学校はほぼ行かずに、学費全額払ってるのに2、3回しか行かずに、もうその子とライブハウスに。でもお金は必要だったので、その時千葉の市川市に住んでたんですが、近くに「カーニバルプラザ」っていう大きいレストランがあった。そこにアルバイト募集で入った。そしたらクラウンがショーをやってるレストランだったんですよ。ショー部門は募集してなかったんですけど、お笑いやりたくて出てきたっていう話をしたら、その時のマネージャーが「じゃあショー部門に入ったらいいよ」って、ウェイターしか募集してなかったのにショー部門に入れてくれて、そこは外国のクラウンの人の音響とか照明、荷物とかを運ぶ部署だったんです。それで外国の人のクラウンのショーを初めて観た。その頃お笑いの世界は、ちょっとブラックユーモア的な人を攻撃して笑いにするっていうところがあったんですね。だけどクラウンは、大人から子どもまでみんなが笑ってる。「ああ素晴らしい! ボクはこっちだ!」ってクラウンになったんですよ。

Q、その時何歳ですか? 

21くらい。

Q、そのクラウンはどこの国の方だったんですか?

その頃はお金があったのか、5、6人のサーカス団みたいな人達を呼んでたんですよね。フランスの一座とか。中国の一座とか。

Q、え? 千葉のレストランで?

900席あったんですよ。

Q、今もあるんですか?

もう閉じた。すごくお金がかかるんですよね。昔はそういう5、6人のグループみたいなので、フランスチームだ、アメリカチームだって呼んでたけど、だんだん呼べなくなってクラウンだけが来るようになった。それがアメリカのクラウンカレッジのクラウン。で、日本にもクラウンカレッジが出来てそこの一期生がお店に来るようになりました。日本人ですから会話が出来るので「ボク、クラウンやりたいんです」って。

Q、それがYAMAさんのクラウンの始まり?

はい。その人はPONTAさんっていって今も活動しています。当時は、メイクも道具も日本では手に入らなかったのでPONTAさんが揃えてくれました。それでPONTAさんについて習っていったんです。

Q、その頃の写真はありますか?

まだないんですよ。でも本当に始めた頃、21、2かなあ。何にも知らないので、衣装もなく古着とかを着てやってましたもん。レストランなのに。「そんな貧乏な格好でやってちゃダメだよ」って、PONTAさんに言われて衣装を揃えました。

Q、じゃあもう舞台には立ってたんですね?

ステージじゃなくて、お客さんのテーブルを回ってました。「こんにちは〜」ってお客さんに風船作ったり。それを2年くらいタダで。平日は音響・照明をやって、土日だけクラウンの格好をしてテーブルを回る。そっちはお金を取らなくて、2年くらいやってたら「YAMAちゃんも色々できるようになったからクラウン契約をしようか」ってなって、急に時給が4倍くらいになった。時給2500円くらいになっちゃって。それですごいお金が貯まったんですよ。遊びにも行かないし。そしたらそのお店が半年後に潰れたんです。でもボクは、お金貯まってるじゃないですか。で、海外組を呼んでた会社に「ボク、クラウンをちゃんと勉強したいんです」って言って、ロシアのサーカス学校を紹介してもらって、すぐに留学したんです。

Q、そこで人生が動いたんですね

そうなんですよ。だから多分お店が潰れてなければ、ボクずっとそこで働いてましたね。月4、50万稼いでますからその頃は。

演技するのは恥ずかしい

Q、なぜ留学先にロシアを選んだんですか?

日本のクラウンカレッジは、アメリカのクラウンカレッジが元だったので、基本的には教え方が似てるんですけど、「別の生き物」という設定なんですよね。クラウンという生き物。元気がいいからドア開けた時に、「ハア〜イ!」。これがボクは出来なかったんです。メイクをしてても恥ずかしかったんですよ。だから意外と普通に「あ、こんにちは〜 風船いりますか?」みたいな形でずっとやってたんです。

Q、もっとテンション上げていけ、とか注意はされなかったんですか?

そこまで先生みたいな人はいなかったけど、明るくするとか、大きく動くとか習いましたけどね。クラウンカレッジは泣く時こうやって泣けって言われますからね。(実演:手を大きく上げてから目の前へ)右向く時はまず左向けって。(実演:左への予備動作を入れて右を向く)そういうのに違和感を感じて。クラウンはすごい好きだったけど、この「ハ〜イ」の恥ずかしさ。苦手というよりは、恥ずかしい。演技をするのは恥ずかしいっていうのがあった時に、ロシアのクラウンが来た時は柱からこういう……。(実演:柱の影に隠れて照れているクラウンの様子)いいな!と思って話を聞いたら、「ロシアは人だよ。クラウンは別の生き物じゃない。でも普通の人よりはちょっとユーモアがある人がこの仕事やってるんだよ」って言われて、ボクはロシアの方が合ってるって思ったんですよね。だからちゃんと学ぶんだったらロシアのクラウンを学びたいって。だからロシアのクラウンが来なかったら留学はしてないと思うんですけど。たまたま来て、出会って、呼んでる会社の人にロシアに行きたいって言ったら、ロシアのサーカス学校を紹介してくれて、お金も貯まってて、バイト先がちょうど潰れたので、行きますって、1年間行ったっていう。

Q、それが何歳ですか?

26の時。

Q、留学に必要な経費はいくらぐらいだったんですか?

留学は50万円で行けるんです。学費寮費込みで1年で50万円くらい。それは貯まってたので行きますって。そこに飛行機代が入るくらい。で、全部持って。

Q、モスクワ!

はい。1998年から1999年にかけて行ってました。

こうしてYAMAさんはロシアへ旅立ちました。そしてモスクワのサーカス学校で生涯の師と仰ぐ素晴らしい先生と出会います。このまま次ページに続きます。関連記事下の「固定ページ」のボタンから2ページ目へお進みください。

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