「勝手に対談! 松本美里×西上寛樹2」 ~福岡子ども劇場50周年記念誌の西郷竹彦先生へのインタビューを読んで~

誰に頼まれたわけでもないのに「勝手に対談!」ひとみ座松本美里さんとの対談前回の続きです。

前回の記事をまだお読みでない方はまずこちらからどうぞ。

「勝手に対談! 松本美里×西上寛樹1」

では、まずこの対談の元になっている文芸学者西郷竹彦先生へのインタビュー記事(抜粋)からどうぞ。

本当の客席参加とは

西郷「ドラマというのは、ただ飛んだり跳ねたり激しく動いていれば、ドラマという事じゃないんですよね。ドラマの本質、ドラマとは何かという事を演じる方も客の方もしっかり確立することです。作る方から言うと、見せるんじゃなくて、引き込めるかです。この世界に、観客が参加できるか。」

西上     西郷さんの言葉に戻るけど、「観客も舞台に参加している」っていうのは、近頃多い客席参加型っていうのとは違うよね?

松本     全く違う。逆ですね。「みんなも一緒に歌ってねー」とか、そういうのとは全然違う。

西上     そうですか。(笑い)僕もそういうのは嫌いな方です。自分が観客として参加を呼びかけられてもやらないもんね。でも、実は自分の作品では『ズッコケ』にしても『ふたりはともだち』にしても『ちゃんぷるー』にしても客席参加を導入してます。
※『ズッコケ』では、ハチベエが巻き起こした事件の内容が瓦版売りによって観客席にばらまかれる。『ふたりはともだち』では、かたつむりの郵便配達が客席にいる子どもに手紙を届ける。『ちゃんぷるー』では、観客を美ら海水族館の生物に見立てた。

松本     まあ、強制的にやらされるのはやだね。さりげないくらいだったらいいけど。

西上     俺が思うに、客席参加型っていうのは、「一緒のことやってますよ」って盛り上げるためじゃなくて、「これは嘘なんだ。これは劇なんです」って、嘘であることを確認する作業なんだと考えるわけ。舞台の中で起こってることは本当なんだってやるんじゃなくて、嘘であることを確認していきながら舞台を進行していった方が演劇って大きくなる気がするの。

松本     でも、観客に参加を呼びかけたりする瞬間は台本の言葉ではなくて、アドリブになるし、第三者というか、素の自分を出す作業になる。

西上     その第三者の目を入れながら、俗っぽい遊びをわざと入れて、「これ嘘ですよね」って確認をして、もう一回舞台の上に本当の嘘を作りに行くっていうか。だから西郷さんが言っているように、観客と一緒に登場人物の気持ちすらも一緒に作りあげていくっていう創造としての参加がまず大前提にあり、それが出来た上で形式としての参加をとりいれてより大きな嘘を立ち上げていくっていうのが本当なんだろうけど、創造の参加が形成される前に、観客に呼びかけちゃう芝居はやっぱりダメだって事だよね。

松本     でもそれをお客さんが望んでいる場合もあるよね。

西上     そう。そうなんだよ。今映画で応援する映画ってあるじゃない。

松本     知らない。

西上     知らない? あるの。映画観て登場人物をみんなで声出して応援するんだって。

松本     気持ち悪い。

西上     そうなんだけど。この現象って面白い。

松本     映画関係ないじゃん。

西上     そうね。むしろコンサートかもね。みんなでゴジラ応援するんだって。「もっと壊せ-」って。

松本     一種のトランス状態になるのかなあ。みんなで同じ方向向いてそこに向かって言うっていうのはさ。

西上     高揚感があるんだろうね。それって何だろうって思うの。

松本     子どもはそれに似た所あるかもね。誰か一人が「やれー」とかって言ったら、みんな言い始めたりしちゃうじゃん。

西上     俺、それ人間の中には必ず入ってるものなんだと思うの。大人にも子どもにも。だからビートルズのコンサートに行って興奮して・・・

松本     失神。

西上     みんなあるんだと思うの。それは「いい」「悪い」じゃなくて、「ある」んだと思うんだよね。それは何かって言ったら共有願望なんだと思うの。人と人は繋がりたい。昔はそれを祭りとかが担ってたんだと思うの。

松本     ツイッターとかラインとかフェイスブックとか。どんどん繋がりたいって欲求があるわけでしょ。

西上     そういうメディアを通してのつながりだけでは足りなくて、生身として、一緒にいる場所で繋がりたいっていう欲求があって応援映画とか変なことになってるんだと思うんだけど。

松本     みんな芝居観に行けばいいのにね。

西上     そうだね。(笑い)

※日生劇場ファミリーフェスティバル『とびだせ☆孫悟空2 ~紅孩児と炎のどうくつ~』より 松本美里演じる孫悟空。ボクの偏見かも知れないが、彼女には破天荒な役柄が集中する。

舞台に求められているもの

西郷「その作品の中にドラマがあるとかないとかっていう問題じゃなくて、作品の中にドラマがなくっても、観客かドラマを体験できる。お芝居そのものの中にはドラマがないのに、観客の中にはものすごいドラマが引き起こされる。芝居は静かに進行していても観客の中に激しい葛藤が生まれるという事も起こり得るわけですよね。」

 

西上   ここで西郷さんの言葉に戻るけど、舞台に求められてるのは「作品の中にドラマがなくても観客がドラマを体験できる」。このことだと思うわけ。これね、ストーリーという言葉で考えてみることが出来ると思うんだけど。ストーリーがあって、そのストーリーに感銘を受けたってことよりも、その瞬間の、その役の気持ちと同期できればもうそれでいいっていう・・・実は、ストーリーもそのためにしかないんじゃないかって。俺も美里さんも「子どもたちに何かを伝えたい」ってやってるわけじゃないじゃない。でもストーリーは、とても大切にしてる。でもそのストーリーも、役を介して演者と観客が一瞬繋がる。そのためだけなのかもしれない。大事なのはその繋がりの方で、その繋がりがあるなら、実はストーリーすらもいらないのかもしれないって。まあ、ストーリー無しで繋がることはなかなか出来ないことだと思いますけど。だから自意識が邪魔なんだって。自意識があると繋がることが出来なくなるから・・・ちょっと休憩しましょう。

演劇の変化

西郷「日本では世阿弥の「離見の見(りけんのけん)」という、離れてから見る、そっちが大事だという考えがありました。日本の狂言や芝居はそういう考え方でした。ところが、明治になって「新劇」がヨーロッパから入って来ました。そのヨーロッパというのは作品の中にドラマがあるという考え方なのですね。それを観客はのぞき見する。第四の壁を取っ払ってのぞいているのだという、そういう発想です。ところが日本の芝居は最初からそうじゃなかったのです。

西上     ここで西郷さんは、明治になって新劇がヨーロッパから入ってきて、それによってドラマは舞台上で起こっているというように日本の演劇観が変わっていったけれども、日本は元々は違った、という風に言ってるんだけども、僕はここ少し引っかかった。というのも例えばシェイクスピア。

松本     そうね。さっき言ってたけどシェイクスピアは違うよね。

西上     あれ、絶対前向いて喋ってるだろ。

松本     のぞき見じゃなくて、想像の方だよね。舞台セットも照明もなんにもない所で演じて、しかも男だけでやってて、それを台詞だけでお客さんが想像していく。創っていくものだからね。西郷さんは、リアリズム演劇のことを言ってるんじゃないかな。

西上     だよね。でも、ここで問題が出てくる。じゃあ、リアリズム演劇が輸入されて、日本の演劇観が観客とともに行う創造作業からのぞき見に変わったのは、「いつから?」「誰から?」「どの作品から?」っていう。

松本     答えられない。

西上     俺も。なんとなくそこにスタニスラフスキーシステムとかが関わってくるのかなとか思うんだけど、知らないんです。僕。でも、知らないのまずいよね。俺らプロだぞ。

松本     (笑い)

西上     俺は、狂言を観たり歌舞伎を観たりしたことがすごく良かったって思うし、人形劇からこの世界に入ってこれて良かったって思うわけ。人形の表情は変わらないのに変わったように見える。ドラマは観客と一緒に作るっていうことを、いやがおうにも考えさせられる職業だったから。人間のしばいの劇団に入ってたらリアリズムに追われてこの事に気がつかなかったかもしれない。でも、リアリズムを「ヨーロッパ的」と片付けることは出来ないと思う。ヨーロッパの中でも演劇の変革が行われてきたはずだから。近代から? 何でそうなったんだろう?

松本     う~ん・・・何でだろう。リアルじゃないといけないっていう風潮があったんだろうね。

西上     昔の演劇。例えばギリシャ演劇だと神様の話ばっかりのイメージ。日本も神話の時代がある。次に中世くらいになるとシェイクスピアの時代のように王様の話になる。まだ大きな話をしてる。それが時代をどんどん下っていくと、物語はどんどん身近になっていって家の問題だったり、男女の問題だったり、差別の問題だったり。等身大の問題を描くようになっていく。その事と、演劇の手法が変わっていったことは関係あるんじゃないかな。

松本     青年団とかは大袈裟じゃなくて、静かに進行していくっていうかすごく繊細な芝居作りしてるもんね。

西上     美里さんは、遠藤先生(※)のところで勉強して、「小栗判官」みたいな説教節を読んだり宮沢賢治を読んだりすることがあったでしょ。青年団のやり方で宮沢賢治読める?
※遠藤啄郎。横浜ボートシアター代表。西上も松本も一時期遠藤先生の勉強会に通っていた。

松本     わかんない。でも青年団は、身近な問題を切り取って舞台に乗せるっていうことが目指してることで、本当にのぞき見してるって感じなんだと思うんだよね。でも宮沢賢治の作品とかはダイナミズムがあるっていうか。のぞき見っていうか(中から)観てるって気がするよね。

西上     俺、最初「セロ弾きのゴーシュ」なんて何が面白いのかわかんなかったわけ。動物が来て、練習して、アンコールでインドの虎刈り弾いて。最後カッコーに謝って・・・「は? そこ?」みたいな。でもそれはリアリズムのドラマツルギーとしてみたら「?」なんだけど、違うんだよね。宮沢賢治の世界は。これは、横浜ボートシアターの仮面バージョンの「ゴーシュ」を観て分かったんだけど、あの作品は村祭りのお神楽の最前列に並んだ子どものような気持ちで観ないと楽しめない。そしたら狸が出てくるだけで「狸キタ-!」みたいに楽しめるからね。それだけでドキドキする。その時に俺が感じたのは、自分がちっちゃくなっていく感じだったの。自分はちっちゃくて、舞台の上にものすごく大きな世界があるという。その中にいるのは快感なの。それまでは、映画とか観てももっと頭で観てるっていうか、意識的に観てるっていうか、「西上寛樹」っていう固有名詞で作品と一対一の関係で観てる感じだったんだけど、ここでは「村人」っていう名前のない存在としてみんなで観てる感じ。リアリズム演劇は、人間が人間の問題を人間だけで考えてる感じがする。でも説教節や宮沢賢治の作品は、もっと大きなものの中に人間の存在を位置づけている。自然。宗教。演劇はもともとはこっち出身なんじゃないかな。それが産業革命とかが関わるのかは分かりませんが、人間が地球の中で自然に対して存在感をひろげていく中で、解決しなきゃいけない問題が人間VS自然から、人間VS人間に変化していく。その中で表現はどんどんリアルになっていく。観客席を見て台詞を言う必要もなくなってのぞき見になっていくっていう。でも横向いてリアルにやるだけなら、映画の方が上だと思うわけ。演劇の可能性を考える時は、やっぱり演劇の起源から考えないといけないんだろうし、演劇の問題を語る時にも演劇の歴史とともに考えられなくてはいけないんだろうけど、僕は作品例を挙げながら、その時の社会情勢と照らし合わせて語る知識が備わっていません。

松本     (笑い)

西上     ふじたあさやさんはこの辺が繋がってるんだろうな。あさやさんが演劇の話をしてくれた時、最初に話したのは恐山のイタコだったからね。

松本     (笑い)

西上     では、次に行ってみましょう。

 

今日はここまでです。後半西上が喋り過ぎていますが、次回「演劇の教育性」では、松本美里さんが自分が受けてきた教育について、子どもについて語ります。今日も最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。

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