勝手に対談! RINA(劇団AFRICA)×西上寛樹/sideB「電子音が溢れる今だからこそ、子ども達に生の音楽を届けたいその理由」

RINAさんとの対談の後編です。日も暮れて揺らめく炎の影響か、話はかなりディープなところまで入っていきます。どうぞお楽しみください。

目次

児童演劇で「飽きさせない」はもう古い?

西上 こうしてRINAさんと話をしているとボクは高橋竹山(1910年6月18日 – 1998年2月5日/津軽三味線の名人)の言葉を思い出しました。今ちょっと読み上げますから聞いてください。

高橋竹山の言葉

頭が疲れてくると寝転んで、何も考えないでじっとしていた。そのうちに色々な鳥の声が聞こえてくる。鳥もただ鳴いてるんでねえな。あそこで鳴いてるウグイスと、ここのウグイスと違う。
それまでは鳥の鳴き声をそんな風に聞いたことなかったが、三味線の節のことを考えながら聞けば、やはり山の響きというものがあることがわかった。山にも山の気持ちというものがあるなあ、ということに気が付いた。山はにぎやかだもんだ。
また規則というものもあって、鳥にも休みがあるらしい。いつでものべつに鳴いていない。30分なら30分、一羽が鳴けば、皆時間が決まっていて一斉に騒ぐ。10分、20分、また音がなくなる。しばらくするとまた始まる。
鳴かないときは何か拾って食っていたり、水浴びしたり。鳥だけでない、ウサギもいるらしい、そういう音を聞きながら、三味線の手をかんがえた。だいたい心に収めて家に帰ってきて、今度は三味線でやってみる。楽譜見るわけでないし、あの音からこれを取ってとか他の人のようにはできないから、三味線作るときは、山の気持ちと自分の気持ちとの相談だ。あと頼めるものもない。
山は好きだなあ。なも喋る人もいねえし、邪魔ねえし、山の匂(かま)りして。ごろっと横になって寝れば、何もかも忘れてしまうじゃ。苦労したことも、辛かったことも過ぎてしまえばなもなくなるのせ。

高橋竹山『津軽三味線ひとり旅』より

西上 今ボク達が話している事とこれは同じ事を言ってるんじゃないかと思うんです。

RINAさん 溶け合うって事と?

西上 はい。

RINAさん ああ、そうかも。

瞑想経験×音楽的気づき

RINAさん 私、タイでジェンベを習う前に1ヶ月ちょっとお寺で瞑想修行をしたことがあるんです。ヴィパッサナー瞑想。元々それをしにタイに行ったわけじゃないんですけど、20代前半の時、まあ色々思うことがあって。

西上 1ヶ月は長いですね。

RINAさん いや、元々一週間で出てくる予定だったんです。周りの人は一週間で何か得るものがあったようで出ていくんですが、私は全然集中できなくて、もう「できないできない寒いし」みたいに半ベソかいてたら、そこで知り合ったスウェーデンの女の子が「私もう帰るからこれ上げる」って、上着をくれたりして、「じゃあもうちょっと頑張ってみるかな」みたいな感じで。(笑)で、その最終テストがあったんです。テストと言っても受かる受からないとかじゃないんですけど、自分と向き合うことで、色んな気づきがあるんです。それが今高橋竹山が言っていた事と繋がるところがあるんです。瞑想している時と山に入っている時って近い状態だと思うんです。自分一人で「無」に近いというか……でも無と言っても考えが無いわけじゃない。「あんなことがあった。こんな嫌なこともあった」だけど、「あれ? なんか音が。鳥ってこんな風に鳴いてたんだ」とか。「あの鳥はあそこで鳴いてるけど、もっと向こうにもいるな」とか。「あ、鳴かなくなったな……」とか。瞑想してる時ってそれとすごく似てて、最初は違うことが色々頭をよぎるんですけど、そのうちに自分の自然なところにおりてくると、「誰かがあっちで話してるな」とか気づき始める。だからと言って、

西上 執着しない。

RINAさん そう。執着しないんです。あるものをそのまま受け入れて、その流れに乗るだけの状態なんですよね。それは心地良くて、上手に乗り出すと、気持ちが安定してくるんです。エキサイティングでもなく鬱の状態でもなく、

西上 ニュートラルな状態。

RINAさん そう。それでその瞑想について書かれた本を読んだんですけど、「ニュートラルな状態が人間にとって一番幸せな状態なんだ」って書いてあって、ああ、ここなのかな、とか思いました。で、今日の演奏はそういう状態。空気と溶け合う感覚。で、瞑想修行でそういう状態が続くと、自分が風船になったような感覚を覚えたりするんですね。呼吸に合わせて自分が大きくなったり縮んだりするような感じ。あとは、体の色んなところに小さなライターくらいの火がポンポンポンって現れる感じ。あんまりこんな話をすると「大丈夫?」って思われちゃうんですけど。(笑)

西上 大丈夫。ちゃんとついていってます。(笑)

RINAさん それは、自分が空気に溶け合ってる感覚になることで、普段とは違う側面が呼び起こされている状態なのかなって思いますね。そこから音楽を感じたり、人との繋がりになっていったり、方向は色々あるんでしょうけど、そのニュートラルな状態の中だったら人間は、普段引いている境界線や限界がなくなって、色んなことがやりやすいのかな。

西上 それが「溶けちゃう」。

RINAさん そう。

昼寝の極意

西上 ボク、昼寝すごく好きで得意なんです。それには方法があって、そうすれば3分でも1分でも時間に関係なく昼寝が出来るんです。

RINAさん へ〜。

西上 それは、今RINAさんが言っていたように音を聞けばいいんです。寝ようと思うんじゃなくて、とにかく目を閉じて、そこで聞こえる音を一個ずつ見つけていけばいいんです。「あ、遠くで車が走ってるな」とか、「木が今カタッていったな」とか、「あ、炭が燃えてるな」とか、「この声は虫の鳴き声かな」とか。で、その最後に自分の息の音に気づくんです。そしたら一瞬「フッ」てなるんです。別に寝なくてもいい。その一瞬の「フッ」があれば、そのまま起きても頭はもうスッキリしてるんです。これは、ボクが猛烈に忙しいバイト生活を送ってた時に編み出した昼寝の技なんですけど、これって今RINAさんが言ってたニュートラルな状態に近いのかもしれないと思いました。これはおそらく自律神経との関係があるでしょうね。じゃあこれを児童演劇に置き換えるとどうなるか。

児童演劇で「飽きさせない」はもう古い?

西上 例えば、児童演劇って「子どもを飽きさせちゃいけない」って思いがちです。でも本当に溶け合うような瞬間がそこにあれば、子ども達は開いてる状態でいられると思うんです。例えば赤ちゃんは基本的にニュートラルな状態にいます。ベイビーシアターというものは、その赤ちゃんと周波数を共鳴させられるパフォーマーによって成り立っている。するとその共鳴は、周りにいる大人たちにも影響する。お母さん達ですね。そこには多幸感がある。今回の作品は、そういう開かれた状態を、赤ちゃんよりもちょっと大きな子たちと一緒に作ろうとしているんだと思います。子どもたちは本来そういう事を求めていると思います。昼寝もするし、歌も読み聞かせも大好きな人たちなんだから。だから劇中の『お月様笑った』の歌もそこに向かって歌われるものだし、山の景色を演者が自分の体で表現するのも、リラックスとは少し違うかもしれないけど、「あ、なんか出てきた」みたいなものになっていきたい。「次何してくれるの?」みたいな刺激を求める観客の立ち位置じゃなくて、その場に調和していく観客の居住まいを探し求めたいんです。そっちが人間本来のリズムのような気がするんです。

RINAさん 分かる気がします。起承転結のしっかりした「ここが山場なんだ。見せつけろー」みたいなエンターテイメント性に富んだ作品もあるかもしれないけど、今回の作品はちょっと違うタイプの作品だと思います。アート寄りか、エンターテイメント寄りか、教育寄りかといえばアート寄りかなと思ってて、だからこそ押し付けるものではなく、子どもたちが来たものをそのまま受け止める、スッと入っていく状態で物語が進んでいく。私たち劇団AFRICAの作品でいうとベイビー作品に近い感じ。それが音楽やダンスの方面からではなく、演劇の方面から作られていっていることが面白いと思います。

西上 形になればね。(笑)でも難しいですよ。演者自身が山の景色になったり、語り手になったり、動物になったり行き来しますからね。それって周波数を幾つも行き来することですから。でもそれが出来たら、子どもたちも一緒に動いてくれるはずなんです。そしたら絶対すごいことが起こる。逆に反対に最初から最後まで周波数が変わらないものを作ってしまったら本当に悲しいものになりますね(笑い)。でも本来演劇ってそういうものだと思うんですよね。周波数が変わらない限り演劇じゃない。人が集まる意味もないし、人が人の前で何事かを始める理由もない。普段生きてるだけじゃなかなか動かせない周波数にいくことで、それが風になり、みんなに変化が起こる。

RINAさん この間言ってた狂言とかを観た後の真似の衝動ですよね。子どもたちの中にそれが起こる。そういう作品だと思いますね。そこに子どもたちをより自然な形で誘(いざな)えたら、その時が成功ですよね。

西上 そうですね。だから、子ども達が全然ついてきてないとか、ざわついたとか思って、パワーとか、ストーリーの展開とか、セリフを落としたりすることで拾う笑いとかで誤魔化してしまわないようにしないとですね。(笑)

電子音が溢れる今だからこそ、子ども達に生の音楽を届けたいその理由

西上 では今度は「生音へのこだわり」についてお聞きしたいと思います。今回の企画で最初RINAさんに声をかけた時に、RINAさんは「私は生(音)しかやってない」と言っていて、ボクも「それでお願いします」と言ったんですが、音楽家って結構生音嫌がる人多いんですよ。

RINAさん そうなんですか?

西上 「この芝居生演奏でいきたいんだ」って言った時に、自分が作曲したようにならない、演奏レベルがやっぱりミュージシャンのようにはいかないという理由で、打ち込み音を使ってリズムやベースを支えたり、歌の場合も録音したものを流したりとかって、この業界ではよくある話なんですよね。でもボクは出来るだけ生演奏でいきたいと思ってます。そこでRINAさんが生演奏に対して考えている事を聞かせていただけますか?

※『イノシシと月』では、RINAさんの作曲した音楽を、3人の演者が生演奏をしながら劇を進めていきます。

RINAさん 正直言うと今も「どこまでいけるかな」と思ってはいるんです。もちろん生音がいいし、アフリカンを入れたいというのであれば、やっぱり生音にして欲しい。振動やライブ感は生音だからこそ出るものなので、生音というのはまずアフリカンの真髄だと思ってます。ただ、聞いてる方からしたらそこまでは求めてなくて、そんなことより録音でもいいから綺麗な音を聞きたいということはあるかもしれない。でもそしたら自分じゃなくてもいいかなーっていうのはあります。

ミュージシャンを自称しないミュージシャン

西上 では、マイクを使うことについてのRINAさんのミュージシャンとしての考えを聞かせていただけますか?

RINAさん まずは、私がミュージシャンかという問題がありまして……

西上 それはどういう事でしょう?

RINAさん あそこまでストイックじゃないと言いますか……

西上 あ、それは何をもってストイックとするかという事を考えてみると面白いかもしれない。例えばボクは稽古場でRINAさんの音楽家としての厳しい顔もみていますし、今回こうしてお話ししてくれた内容の中に、それらの音楽的選択が、RINAさんの経験に裏付けされていることもよく分かりました。その意味ではRINAさんは、非常にストイックなミュージシャンだと感じているのですが、RINAさんは自分の事をミュージシャンと呼ばないんですよね。(笑)それはなぜでしょう?

RINAさん それは私が普段目の前で見ているミュージシャンの存在があるからですね。その人たちの音の質だったり、リズムの正確性だったり、楽器への愛情だったりは、本当に敏感だし繊細なんです。

西上 確かに! RINAさんは、今日バラフォンを木の枝で叩いてましたもんね。(笑)

RINAさん (笑)

西上 あれ、怒られるんじゃないんですか?(笑)

RINAさん 怒られるのかなあ。(叩くもの)ないからいいかって。傷つかないくらいならって。

西上 いや、多少は傷つくでしょう。でもRINAさんはそれより子ども達と一緒に演奏する事を優先したわけで、ボクはそれはとっても素敵な事だと思いまし、本当のミュージシャンってそういう人なんだと思います。

木の枝でバラフォンを叩くミュージシャン
(遊びに来てくれたはじめましての子ども達には、ぼかしを入れてあります)

マイク麻痺

RINAさん あれ? 元々の質問は何でしたっけ?

西上 (笑)マイクの話です。

RINAさん 通常のステージ公演だとやっぱりマイクは使います。特にバラフォンの場合、ジェンベと一緒に演奏するので、マイクがないと音が全く聞こえません。叩いてる本人でも聞こえないくらいですから。だから大体マイクをつけて、返しも用意するんですけど、だからマイクを使うという事に関しては慣れていると言えば慣れてるんです。公演の場合は、太鼓もマイクを通します。それはやっぱり離れててもアンサンブルが出来るっていうのが大事なので、だから今日の皿山公園でやったみたいにバラフォンだけで叩くとか、弦楽器と一緒に叩くとかいう場合はマイクがなくても出来ます。そしてマイクがない良さはやっぱりあると思うんです。マイクを通すとやっぱり音質は変わってしまいますから、マイクを使わない事で、楽器そのものの音を楽しむことができます。そして私の場合は、その時々の空間にどう合わせられるかどうかっていうことがすごく大切なことなので、一番リラックスした状態で演奏できるのは、やっぱりマイクを使わない時ですね。でもまあ、だからと言ってマイクの事を毛嫌いしているわけではないですし、マイクがないと本番では私は存在しないですからね。(笑)

西上 マイクを使うということは、「出力する音」をどんどん決めていくわけじゃないですか。そしてそれに対して演奏するために必要な「返す音」を決めますよね。それで本番スタート、本番の中では演奏自体が変わるし、お客さんの反応もあるのでまたさっき決めた音が微妙に変化していきます。それを調節するのは音響オペレーターなわけで、生楽器のマイクを調節する仕事はとっても難しいだろうなと思います。

RINAさん と思います。特にバラフォンは、音響さんが初めてこの楽器を見る場合も多いので、マイクを上から狙うか、反響させてる下の瓢箪部分を狙うかで迷われますよね。その狙い方によっては、アタック音が強くなりすぎてしまってバラフォン本来の響きが損なわれる場合もあるんです。結局私は上から狙ってもらっています。大体いつもマイクは二本もらえるんですけど、マイクの種類にも左右されるし、そばで叩いてるジェンベの音も一緒に拾ってしまったりする問題もあるし、ハウリングの問題もあります。

西上 それは本当に大変な作業だと思います。でもそれはすべての音がちゃんと聞こえてなければならない、という事を前提にした音作りだと思うんですね。で、そのことによって今世の中はマイクで音を増幅させることについての麻痺が起こってるんじゃないかと思ってるんです。ジェンベとバラフォンの場合だと音の大きさがあまりに違うので、そのことはちょっと脇に置いて聞いていただきたいんですが、例えばシンガーソングライターが小さなカフェとかバーとかで弾き語りをするとします。その時に会場が狭くて、生音で十分聞こえるような環境でも生を選択する人って結構少ない。ギターも歌声もマイクで拾うことが常態化してる気がするんです。それはプロだけじゃなくてセミプロ、アマのレベルで起こってる。機材は沢山売ってますからね。「限りなく生音に近い音を出せるアンプ」とかね。で、それはお店の方も結構持ってるんです。だから「あ、マイク出します」って。そしてそれは学校の先生にも言えます。学校の先生がみんなの前で話す時、声は十分届いているのに、校長が前で話す時にはマイクを出さないと失礼に感じたりして結局出す。次は会議。少人数なのに発言者にマイクを回していく。これがマイク麻痺。

RINAさん なるほどね。

西上 現代社会はよく「音の洪水」と呼ばれますが、その一つにこのマイク麻痺問題があると思うんです。で、それが我々にとってどういう弊害を生んでいるかというと、音量のドラマを逃してしまうということですね。ちょっとそのことについてボクの体験をお話しさせてください。

音量こそドラマ

西上 ボクは一時期バンバンバザールというバンドを追いかけてたことがあるんです。そのバンドはライブを大切にしているバンドだったので、場所によってパフォーマンスが全然違ってくるんです。そのことに気がついてボクはバンバンがライブする場所を見て珍しい場所でやる時とかを狙っていくようになりました。で、地下鉄銀座駅のライブに行ったんですね。それは駅構内の人が沢山行き交っている場所で、人混みの音はもちろん、電車が来ればその音も聞こえます。バンバンはそれまでマイクを使って演奏してたんですが、アンコールになってリーダーの福島さんが「こういう人が行き交う場所は実は音がよく通るんです。だから最後はマイクを切って生でいかせてください。」って。ギターの伴奏だけで歌い始めちゃったんです。曲は坂本九の『見上げてごらん夜の星を』でした。ボクあの歌嫌いなんですよね。当時20代の真ん中くらいでしたから、ああいう嘘っぽい歌詞ってダメなんです(笑)。でも、その時は全然違いました。マイクを通さずに奏られるギターや歌声は、みんなが聞こうとしなければ聞くことができません。で、そうして聞こえてきた音からは、あの歌の世界が染み渡るように自分の中に入ってきたんです。家の灯りの一つ一つを空から見下ろしているような景色も浮かんできました。健気な命のようなものまで感じたんですよね。その時に「あ、音量がドラマなんだ」って。世の中は出す音ばかりを気にしていますが、大切なのは聞く方の状態を作り上げていくことじゃないか。その中にこそ本当に豊かな音楽や想像の世界があるんじゃないかと、その時から考えるようになりました。

電子音が溢れる今だからこそ、子ども達に生の音楽を届けたいその理由

西上 今回の企画の話を最初にいただいた時に、ボク達は劇団さんぽの皆さんと今の子ども達が抱える状況について話し合いました。その中に「今の園は、朝からず〜っと音楽が流れている」というのがありました。遊ぶ時も気分を煽るような音楽がスピーカーから流れてて音のない時間がない。

RINAさん 分かる〜。それもその音っていうのが全部電子音だったり、流行りの歌であったりその時代で一番売られてる曲を使いがち。私もそういうことに疲れを感じています。

西上 それがまたものすごい音量で流れてたりするわけですよ。昨日ボクの好きな民族音楽学者の小泉文夫さんのラジオ音源を聴いていて、その中でガムランが紹介されるんですね。ガムランの世界は音に対して相当厳しいらしいんですが、その音に対してものすごく繊細な耳を持っている人たちが実は私生活では「無音の時間が長い」らしいんです。それは、音のない時間がかえって聞く耳を育てているのではないかと、小泉文夫さんは考察をしていました。それをさっきの音量がドラマなのではないかということと併せて考えてみると、無音も音といっていいのかもしれない。出てくる音そのものに意味があるというのではなく、出た音に対して人がどう反応するかということにこそ意味があるんじゃないか。この考え方は、この対談の核にもなっているような気がしますが、その事を作品を通して子ども達に体験として届けるのがボク達の仕事なんだなと改めて思い直してみた時に、やっぱり生の音、マイクを介さない音がいい。でももちろんそれは原理主義じゃなダメで、(ボク達が作った手作り楽器の)バリンビンの倍音が出てなかったら意味がない。(笑)

RINAさん でも「生だからいいでしょ」って?(笑)

西上 それじゃあ意味がない。(笑)

RINAさん 言っていることはよく分かりますね。例えば空気を操る、という話をした時と同じなんですが、子どもって小さい声で話すと「何?」って耳を傾ける。でもそれをするには、空気を操らないとその人の存在すら消えちゃう(笑)。でも、そういう風に音と空気を操る。そこに伝えたいという想いがあれば、それは演者じゃなくても出来ることなんだと思うんです。大きい声じゃなくても伝わる音量で何かを伝えることができる。そういう事を無視して全部マイクで、っていうのは、マニュアルだったり、流れだからって、やっちゃってるんでしょうね。または、その話自体そもそも意味がなかったりするからマイクに頼らざるを得ないとか?(笑)。
でも保育園とか幼稚園でずっと音楽をかけて、アップテンポな音楽で気持ちを上げたり、自分たちの「なって欲しい形」のために音楽を使うのとかって効果としてはあるのかもしれないけど、そういう事をしているから、音というものに鈍感になってしまっているような気がします。音が氾濫しすぎてて、それも電子音ばかり。自分が聞きたい、聞きたくないに関わらず、それは常にある。こっちでファミリーマートのドアが開いたらそこから音が溢れてきて、外は外で大きなスクリーンからCMの音が流れてる。それってものすごいことなんだけど、多くの人は当たり前だと思って気にしない。でもさっき高橋竹山さんの、山に入って音を発見していく感覚とかって静けさがあるからこそできるものだと思うんですよ。松尾芭蕉の「古池や……」っていうのは、その感覚を言葉で表現したってことですよね。静けさの中にこそ豊かな音の世界が存在しているっていうのは、人間は体験として知ってる。でもそれが音の溢れる世界で、ちっちゃい頃からYouTubeとかばかりになって、いやYouTubeが悪いってことじゃないんですよ。私も好きですし。でもそういう状態で育つとどうなっちゃうんだろう?

西上 そうですね。さっきの話で言うと、溶け合う状態の中に幸せがあったわけですから、溢れる音の世界に対してガードを張って溶け合えない状態を作ってしまうことがスタンダードになってしまった現代社会の状況は、最初から溶け合えない、つまり幸せを逃す人間を作ってしまっていることになってしまわないか。こういうことを考えると、やっぱり幼保向け作品では、マイクや録音素材を使わないって事を基本にしていきたいと思います。それが今氾濫するメディアの中で自分たち生の舞台芸術に出来ることだと思うんです。もちろん原理主義じゃダメですが。大事なことなので2回言いました。(笑)

RINAさん 世の中はもう溢れる音に慣れてしまってるわけですから、そういう音を舞台芸術に持ち込んでしまっては、特別な意味もなくしてしまうわけですしね。演劇はライブなのに音はライブじゃないってことを作ってしまうのはもったいない。ただ、やっぱりテクノロジーは進んでるわけで、私たちもその恩恵を享受しているわけですから、生であることではなく、そういったテクノロジーから生まれてくるアート作品があってもいいとは思うんです。ただ、今回のような考えを持った作品も意識して残していかないと、社会が商業ベースで動いてることもあって、音に対する繊細な感覚とか、そこから生まれてくる価値観っていうのはどんどん失われていく恐れはありますよね。

西上 はい。でもそれを「守っていく」というのではなく、「発見していく」事として提案していきたいですね。例えば、今日のRINAさんのバラフォンの演奏の中に、その発見がすでにあったように、『イノシシと月』もそこを目指したい。これからのことは(コロナで)どうなるか分からないですけど、それはなるようになるし、なるようにするってことだと思ってます。

RINAさん まあ、なるようになるでしょう(笑)。

西上 はい。すっかり暗くなりましたね。今日はこの辺りで終わりにしましょうか。遅くまでどうもありがとうございました。

RINAさん ありがとうございました。

音、あそび、出会い、風

RINAさんと創作中の『イノシシと月』(劇団さんぽ作品)は、2020年4月29日に初日を迎える予定でしたが、新型コロナウィルスの影響で4月13日に稽古を中断。現在、約一年の先送りが予想されています。この対談は、創作を一時断念せざるを得ない状況になった時に、そのまま稽古場を閉じるのはあまりに惜しく、作品について振り返ってみようと始めた『イノシシと月』創作ノートの番外編として行ったものです。

RINAさんが参加する劇団AFRICA(福岡)のサイトはこちらです。素敵なミュージシャンやダンサー達が、赤ちゃんから大人まで楽しめる様々なパフォーマンスを提供してくれていますよ。ぜひチェックしてみてください!

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