いきなりインタビュー:クラウンYAMAさん① 「将来の夢は乞食!」の子ども時代から、言葉が分からないまま飛び込んだロシア留学時代まで

目次

言葉は全く喋れない

Q、学校のスタートは何月ですか?

学校は9月に始まって6月までが1年(1期)なんですよね。ボクの場合は手続きとかがあって10月に行きました。そしたら向こうが「なんでお前は観光ビザで来たんだ?」って。ボク何も知らないので、観光ビザで行ってたんですよ。でもまだそういう時代だから、学校が警察に袖の下を渡して3ヶ月だけ通えたんです。でも学校から「頼むから一度帰ってくれ」と。問題になると嫌だからって。だから3ヶ月通って、一回日本に帰ってきて、一夏越して、また次の9月に行って、そこから一期(6月まで)通ったんです。

Q、言葉はどうしてたんですか?

言葉は全く喋れないんですけど、英語は一応、中・高と6年間習うじゃないですか。それで喋れないって、恥ずかしさがすごいあるんですが、ロシア語は全く習ってないじゃないですか。恥ずかしさが何にもないんですよ。だからすごい話しかけられても「分かんない」って、平気だったんです。だからアメリカ留学はしなかったのは、喋れない。恥ずかしいっていう……。

Q、負ける留学はしない(笑)

負ける留学はしない。(笑)それはすごい良かった。喋れなくて当然だもんって。

Q、学校には何人ぐらいいたんですか?

ロシア人は分かんない。ロシア人はタダなんですよ。国立なんで。外国人は、ヨーロッパ、特に北欧、スウェーデン、デンマークの人たちで、もうサーカスで働いている人たちが勉強に来てて、10人くらいいましたね。ロシア人はもっと多くいました。学校は、4年間。大学と同じで、16歳で入って20歳で卒業。それでボクは日本でやってたし、他の留学生もみんな4年生扱い。1、2年生はアクロバットとか、タップだ、ダンスだ、バレエだって基礎をやって、3年生からクラウンなのか、ジャグラーなのか、空中ブランコなのかって専門コースに分かれる。ボクはクラウンのコースでした。

クラウンしか習わなかった

Q、市川のレストランからいきなり世界レベルの体系だった教育機関に飛び込んだわけですよね。実際どうだったんでしょうか?

最初は恥ずかしかったですよ。バク転も出来ませんからね。1、2年は基礎でやってるからロシア人はみんなポンポン出来る。今更バク転から習うとか、タップもバレエも何にも出来ないところから習うので、せっかく学校に来てるのに、恥ずかしくて授業はすごい嫌だったんですよね。マンツーマンなんですよ、外国人は。でも他は授業をやってるから、ポンポンやってる横で、綱を付けられて引っ張ってもらってバク転とか。恥ずかしくて恥ずかしくて。最初はもう授業が嫌でした。だってロシア人からしたら何で26歳で来てるんだ?ってなるじゃないですか。普通は20歳で卒業なんだから。だから「今バク転やって、ボクはバク転を使うのか?」って考えましたね。。それでアクロバットを辞めて。バレエも辞めて。タップだけはクラウンの先生が必要だって言ってたからやって、結局ボクはクラウンしか習わなかったです。今だったら色々やっとけばよかったって思うんですけど、その時は要らないものは全部省きました。だから午前中にタップやって、午後1時から4時までクラウンの先生と毎日マンツーマンです。月曜から土曜まで。そういう授業にしました。

Q、学校でそのスタンスが受け入れられたんですか?

っていうより「あいつ授業来ねえな」ってなったんだと思います。ボクはただ行かなかったんです。言葉が分からないから「辞める」とも言えない。だから行かないっていう。態度で示しました。

Q、クラウンの先生について教えてください。

レフ先生。日本にボリショイサーカスが来た時の第一回目のクラウンなんですよ。ボクがロシアに行ってる時に、偶然日テレの取材がサーカス学校に来たんですよ。日テレってボリショイサーカスのバックアップをしていたのでその関係で。それで「今日本人いるよ」ってなって、ボク取材を受けたんです。その時に通訳で日本人のおじいさんがいたんですけど、その人がレフ先生と会って、「あ〜〜!!」って。レフ先生が初めて日本に行った時の通訳の人だったんですって。二人は30年ぶりに会って、「今日本人教えてんだ」って。そしたらその通訳の人から「彼はすごく面白いクラウンだから君はいい先生についてるよ」って言われて、「ああ、そうなんだ」って。ただ、すごくいい先生がロシアのサーカス学校にいるっていうのは聞いていました。その頃、ウクライナも結構いいんですよ、サーカス学校としては。指導の仕方が単発ではなく、一人の先生についたら、例えばジャグリングの先生だったらジャグリングの技術も教えるけど、曲とか演出とか統一して、ダンスの先生に「こいつにはこういうショーをやらせたい」って、総合的に作品を作ってくれたそうなんです。だからキエフ(ウクライナ)がいいかなと迷ってんですが「ボクはクラウンを習いたい」って言ったら、じゃあモスクワの方がいいと。すごくいい先生がいるからって言われて。「じゃあその先生に習えるんだったら行きます」って決めたんです。

Q、その情報をくれた人もすごい情報収集力ですね

はい。その人はカーニバルプラザに外国のパフォーマーを呼んでいた会社の人なんですけど、ロシア語が出来て、しょっちゅうロシアに行って現地のサーカスを見ている人でした。その人に相談したら、レフ先生って人がすごくいいクラウンだから、彼に習えるといいんじゃないかって言われて、ボクはモスクワへ。その後の人は、結構キエフに行ってるんですけどね。

好きなことだけをやる

Q、その情報を手にして「レフ先生に習えるなら行く」って言えるYAMAさんもすごいですね。

好きなことはこう(手で視界を狭める)しか見えてないんですよね。他のことが見えてない。ボク、東京来るのだって、卒業したらお笑いやるって決めてたので、卒業式の次の日に来てるんですよ。誰にも言わずに。だから地元で行方不明説が流れたそうです。実は、2月の間に市川に住んでた近所のお兄ちゃんが大学4年で卒業して地元に戻ってくるっていうのを聞いてたんです。それで連絡して「その部屋に入れませんか?」って、2月のうちに会いに行って、「ここだと床屋ってどこに行きます?」「どこにご飯食べに行くの?」「どこでトイレットペーパー買うの?」って全部聞いて、で帰って来て卒業式の次の日に。もうこう(視界を狭める)なってるので。

Q、普通は卒業したら余韻を楽しむ人が多いのに、一切そういうことをしなかったんですね。

しなかった。後で知ったのはウチの学校って進学校だったから、自分が3年生になった時に前の学校の……

Q、え? 進学校だったんですか?

出来て5年目だったんで。

Q、いや、YAMAさん勉強できたんですか?

勉強できたわけじゃないですよ。推薦で入ってるので。生徒会長だったから。で、3年生になった時に前の3年生の資料をもらうんですよ。先輩の名前があって偏差値があって、どこの大学行ったとか、そんなのもらうんですよ。で、自分が卒業して次の後輩に聞いたら、ボクのとこ「不明」って書いてあったって。大学行ってないから。同郷会、同窓会とかから電話がかかってくるんですけど親も言わないわけ。いたずら電話とか変なことがあるとイカンからって。だから東京に行ったとも言わずに「伝えておきます」とだけ。それでずっと行方不明説。Facebookというのが広がって、向こうがボクを見つけて、「あ〜ノリくん東京で頑張ってんだ〜」みたないなことになって今同級生から呼ばれるようになりましたけど、それまでは「あいつどこで何やってんだ?」

Q、好きなことへの行動力がすごいですね。そして直感力。自分の直感に対して行動できる自分への信頼感がすごい。

わがままで好きなことしかやってはなかったと思うんですよね。「これやりたい」と思うことはやる。

Q、自分にブレーキをかけない。

最初の頃友達から「いいよね。好きなことやって」ってすごい言われたんですよね。だってみんな大学行って就職するじゃないですか。大学行かずにアルバイトしてクラウンやってることに対して。でもボクとしては「やりゃあいいじゃん」としか思わない。だってサラリーマンを選択したのはあなたですよね。何を迷うことがあるんだろう。そういうのはなかったんですよね。「好きなことをやってる」って。なんか必死にやらなきゃいけないと思う人いるじゃないですか。サラリーマンとかを蹴って好きなことに行かなきゃとか。ボクにはそもそも「サラリーマンをやらなきゃいけない」って思いがないので、「あなたがそれを選択したようにボクはクラウンを選択しただけですよ」っていう感じ。自然なんです。

辞めりゃいいじゃん

ボク、奥さんと出会った時、奥さんはまだ会社員だったんですよ。即興芝居とかが好きで一緒にやっていて、そこで出会ったんですけど、残業残業ですごい忙しくて、大変だ〜ってなった時にボクは、「え? 辞めりゃあいいじゃん」って。「はっ」となって、奥さんは仕事を辞めたんです。でも相手の親からしたら、急に娘が会社辞めて、クラウンと結婚して、で「傘回したい」って傘回し始めて。えらいことになりました。その時奥さんは「会社を一生懸命やらなきゃいけない」と思ってた。で、「辞めればいいじゃん」って言われて「はっ」。普通ですけどね。だから自分では我慢してるって記憶がないので、(現在胃がんのヒーリング治療で)「今まで我慢してたんだね」って言われると、「何を?」って思っちゃうんだけど、まあそれもあるんでしょうね〜

レフ先生の授業

Q、レフ先生の教えは最初から素直に受け入れられたんですか?

う〜ん……でも最初にお会いした時は、姿を知らなかったんですよね。駅まで通訳の人がピックアップしてくれて学校まで行ったんですよ。その時に一人だけ立ち姿が、雰囲気が違う感じの人がいて、「あ、この人だ!」っと思ったらその人がレフ先生だった。普通のおじいちゃんなんです。その時もう60過ぎてましたし、別に特別なクラウンの格好してるわけじゃない。でも分かった。

Q、授業はどのように行われていたんですか?

授業はロシア語だから、動けばなんとかなるんですけど理論はわからないじゃないですか。「これをやれ」と言われた時に、なんでそれをやるの? 何が面白いんだ?っていうのはありましたよ。これ寒いってやったら(実演:かじかむ手をすり合わせる)、寒さで手がひっついちゃった。取れない。いつ取る? 取るタイミング。(実演:頑張っても取れなくて一旦休憩。すると手が取れている)このタイミングが大切なんだってことを言われるけど、これの何が面白いの? 手がひっついてる面白さが分からない。だからこんなんでしたもんボクの態度。(あからさまに適当に言われたことだけをやってる感じ)でも先生は「違うよ。そうじゃなくて」というような……。

Q、それをロシア語で言ってくるわけですね。

通訳をつけなかったので。だからボクも日本語で「これの何が面白いの?」って。

Q、言ってたんですか?

ずーっと言ってましたよ。1年間言ってました。でもこの授業毎日あるんですよ。これ以外にもいろんな、お酒を飲んだ時に(実演:酒が喉を通っていく)ここを感じなさいって。この長さ。目を開けると、「まだ早い」とか。何の意味があるんだこれに。ずーっと1年間文句ばっかりだった。

Q、つまり師匠の言うことを疑い続けてたってことですよね。

はい。

Q、ダメじゃないですか。(笑)

ジャグリング練習もクラウン的な見せ方とか技術を含めてレフ先生が全部教えてくれるですけど、上手くできないと、ボールを投げて、教室から出ていってました。で、1時間くらいして戻ると、先生がちゃんといるんですよ。で、悪いなあと思っていたら、先生がボールをこうやって拭きながら、「クラウンは紳士じゃないといけないよ」って言われて、そこからボク衣装をタシキードにしたんですよね。日本に帰ってきてまず。中身を一気に変えるのは難しいけど、せめて格好だけはと思って。
その頃は1年間ずっとマンツーマンで「何が面白いの?」って態度。でも先生はずっと待っててくれて。サーカス練習場で練習してるのを一緒に観にいって、「あの子のあれはただやってるだけだから、あれはデモンストレーションで、ショーにはなってない」とか教えてくれた。だんだんロシア語は分かるようにはなってくるので、喋れないけど、見せながらやりながらずっときて、卒業公演にボクが出ることになったんです。で、先生に習ったこういうこと(実演:手が離れない)とか、ビールを飲むとか、「何が面白いんだ」とか思いながらもやったんですよね。そしたら、周りの生徒と先生の反応が変わったんですよ。「すごい! ちゃんとクラウン習ったね」って。「一緒に組みたい」とも言われたし。ああ、ボクはすごいことを習ってたんだと思って反省したらもう1ヶ月後に帰国なんですよね。それが5月。だから「ボクが評価されたらレフ先生が評価されたと考えよう」っ思いました。先生のクラウンをボクはちゃんと受け継いでいきたいって。
ボク一回3ヶ月行って、半年あいたじゃないですか。この間に夏休みも過ぎてるんですよ。その間先生が「日本でのキミの先生だよ」って、色んなパフォーマーのビデオをくれたんですよ。その中にボクが次来て取り掛かるであろう新作の内容を先生が作ってる動画が入ってたんですよ。「この袋とボールで、こうやったら取れない。このタイミングどうかなあ」「これ、YAMAがやったら面白いかなあ」とか奥さんと休みのサーカス場で考えてくれてた。ボクが次来るかも分からないのに。
だから、ボクはいつも「レフ先生だったらどうするんだろう」っていう考え方ですよね。素晴らしい先生に出会っても最初の1年では分からなかった。20年経ってやっと今「あ、これってこの間が大切なんだ」とか分かるようになってきた。そう。20年位かかったな〜って感じですね。でも喋れないし、連絡取れないから先生が生きてるかどうかも分からないんですよね。

Q、YAMAさんは受け取ったんですね。

そうなってればいいなあと思うんですけどね。嬉しかったのは、日本でキングオブコメディと呼ばれるディミトリーさんというクラウン(スイス)がいるんですよ。そのディミトリーさんが日本でワークショップをやった時に参加して、1分くらいのパフォーマンスを見てもらったら「君はロシアクラウンだよね」って。あ〜、自分の中に入ってる!って、すごい嬉しかった記憶があります。ロシア行ってから5年目くらいだったと思うんですが。「ロシアで勉強したんです」って言ったら、「分かる」って言われて。

Q、ロシアで学んできたという「3点理論」に代表するクラウニングの理論・技術論についてお伺いできますか?

ボクはやっぱり自分に才能があると思ってないんですよね。ジャグリングもそうですけど、「才能」って言われちゃうと、もういけないじゃんっていう思いがすごくあった。でも理論とかで、ここまではいけるよっていうのを作りたかったんですよね。そうじゃないと才能ある人しかクラウンできないのかとか。役者できないのかってなる。そこからは個性で目立つ目立たないはあるかもしれないけど、ちゃんとした理論だったら、このレベルまではいくよっていうのを作りたいと思って、意外とメモは好きなので、習ったこととか印象的だったことをメモはしてた。それをだんだん教えたいと思った時にしばいの大学の講師の話が来たので、ぜひやらしてくださいって、一つのノートにこうやってまとめたりとかしたんですよね。

Q、ということは怒ってボールを投げて帰ったりしてもメモは取ってたんですか?

取ってました。やることなかったので。だから授業以外でも学校行って、他の人を観てて、ジャグリングのやり方とかその人が習ってることを絵で描いて、ジャグリングってこうやってやるんだとか、5個ってこうやって練習するんだとか。人のを見て、「あの動き面白いな〜」って。全部メモってやってましたね。

今ここで感じたことを出せるようになりたい

Q、言葉が使えないことでかえって感覚が研ぎ澄まされていたということもあったんでしょうか?

あるかもしれないですね。考えるようになった。「それどうやってやるの?」「この動き何の意味があるの?」とか聞けないから、「この動きは何でやってるんだろうなあ」とか、よく見て「あ、このためにこれはやってるんだ」とか考えるようになりましたよね。
その後のワークショップとかでも上手(かみて)から出てきて「今何考えて出てきた?」って言われて、考えてなかったりするけど、「あ、一歩目から必要なんだな」とか。ワークショップとかで二人いて「海を見て」っていうお題で、ただ二人で見ていた時に、「見てる海が違う」って言われた時あるんですよ。で、実際話すとボクはハワイをイメージしてました、こっちは日本海をイメージしてました。実際海が違ったから、「二人で見るなら共通の海を見ないといけないよねって。」ああ、そういうのって伝わるんだ〜って。

Q、でもYAMAさんのパフォーマンスを見ているともっと素朴な瞬発力に満ちた考えがあるような気がするんです。だから一瞬でお客さんと繋がっちゃう。反対に演劇畑の人は色々考えてはいるけど閉ざされていてお客さんと共有できない事が多い。それは言葉で説明しないと伝わらない考えだからです。ボクはこの両者の違いに興味があって、その秘密がYAMAさんがロシアで言葉を介さないで学んできた事の中にあるような気がしました。

あんまり深くは考えてないですけど、ボクは掘り下げは出来ないなっと思ったんですよね。お芝居って役があったらキャラクターを掘り下げるじゃないですか。台本になくてもこの人はどういう子ども時代を過ごしたか、とか。ボクは、「考えて出てこないんだったら子ども時代考えてもしょうがなくない?」って思うタイプなんですよ。アメリカクラウンも苦手だったのは、クラウンのキャラを自分で考えるんですよね。例えば「クラウン年齢何歳ですか?」「どんなキャラクターですか?」。例えば「13歳くらいの中学生のキャラクターです。いたずらっ子です。」って決めるから「うわ〜きゃー」っていうキャラクターなんですよ。でもボクはそれは「何かになる」ことだと思ったから、苦手だったんですよね。でもロシアはそのままじゃないですか。あなたのままでいい。人だから。それが自分の感覚に近いから、ボクはロシアの方が良かった。
お芝居とかも「何かになる」じゃないですか。それがボクは苦手だからお芝居をやらなかったっていうのはあるんですよ。その代わり今ここで感じたものは出せるようになりたい。それはロシアでもそうだったんですよね。先生に言われて、例えばお客さんにヤジかなんか言われて腹が立ったら怒っていいんだよって。それを表現として出せばいい。我慢は必要ない。怒るんだったら怒る。でもリアルに怒るとクラウンではないから。あえて怒ってるっていうことを大きくやる(実演)っていう。悲しいんだったらそこで泣いていい。表現として出せばいい。それでボクはすごい楽になったから。じゃあ今思ったことは素直に出せる体、思ったことをパンって動ける体にしておくことは、意識してます。深くいけないから、思ったことは出そう。
ロシアでは日常がそうだったんですよね。無表情でこうやっていると(無表情になる)、やっぱり何がしたいか分からないけど、例えば食べ物が置いてあってすごい「あ〜」って(食べたそうな顔)すると、「食べる?」って言われるじゃないですか。「食べる」って。(食べる仕草)どっか行くんなら「行きたいな」って(ワクワクした表情)。「YAMAも一緒に行く?」「行く!」とか。普通にしてればこいつ来ないんだなとかになるので、態度に出す。というのはちょっと意識しましたよね。

Q、この話は「深い・浅い」という演技のレベルの話ではなく、もっと根本的な問題をはらんでいると思います。『空の村号』や『ちゃんぷるー』でYAMAさんが「第4の壁」を軽々と乗り越えてお客さんとダイレクトにつながることが出来た秘密がここにあると思うんです。このことはまた少し角度を変えて伺っていきたいと思いますが、ちょっと長引いたのでここで一度休憩しましょう。

はい。


以上が7月20日に行ったインタビューの前半部分となります。後半は日本に帰ってきたYAMAさんがクラウンYAMAとしての自分のスタイルを模索していく過程、その中で飛び込んだセリフ劇・児童演劇の世界への挑戦について伺っていきます。現在大急ぎで文字起こし中。お楽しみに!

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