10代〜20代「何がしたいか」なんて分かるわけない。「自分が何者か」が分からないんだから。−Facebookブックカバーチャレンジより

先日Facebookでブックカバーチャレンジに参加しました。ルールを無視して自分語りと共に書いておりましたので、10代から20代前半を振り返るエッセイとしてブログにまとめてみました。よろしければご覧くださいませ。

※この記事は2020年5月16日〜22日にFacebook上で公開したものです。

昨日、日本舞踊家の坂東冨起子さんからバトンをいただきました。
多くの県で緊急事態宣言が解除され、おそらくこのブックカバーチャレンジも収束に向かっていると思いますが、本棚から7冊選ぶ作業は楽しかったので一応7日間務めて、そこでバトンも一緒に片付けちゃおうと思います。

最近読んだ本ではなく、10代から20代前半にかけて読んだ本の中から選んでみました。まさか児童演劇の仕事につくなんて、これっぽっちも思ってなかった頃に読んだ本7冊。

太宰治『正義と微笑』/17歳

(表紙は『パンドラの匣』になってますが、この中に入ってます)

これを読んだのは高校2年生の頃。
愛媛県の田舎町で部活(バレーボール)ばかりやってました。でもそれだけでは何か物足りず、写真を始めてみたり、ヒッチハイクをしてみたり、刺激を求めてました。ボクには読書する習慣がなかったので、文化的な刺激はもっぱら映画(と言ってもVHS)と音楽と漫画。そんな時、いとこの兄が貸してくれたのがこの本でした。
面白かったなあ。小説を読むのもほとんど初めてだったし、活字で笑ったのも初めてだったかも。
主人公が自分と同い年で、自分と同じように日記をつけていることも親近感を感じました。ボク高校1年から12年間くらい日記つけてたんですよね。日常の気づきを淡々と綴るような慎ましい物でなく、過剰な自意識を吐き出す場だったので、今も恐ろしくて開けられないけど。それこそそっちがパンドラの箱。

本作の主人公も自意識過剰ですが、ボクなんかより物事に対する洞察が深く(30代の太宰が書いていたんだから当然)、可愛げもあって好きでした。確か前進座の若手俳優さんが実際につけていた日記を元に太宰が脚色して生まれた作品だと聞いています。
以前、前進座の樺山さんにそのことを話したら「知らなーい」と言ってました。だからもしこの本を人に薦めるとしたら、前進座の研究生に薦めたいな。

シェイクスピア『ヴェニスの商人』/18歳

18歳。高校卒業を控えた春休みに読みました。4月からは映画の専門学校に入学することが決まっていて、「これからはオレも表現者なんだからシェイクスピアくらい読んどかないと!」なんておバカな気合を入れて、バイト先の警備会社のお昼休みの休憩室で読みました。でも……

超つまんね〜

そりゃそうです。戯曲自体読むのが初めて。セリフとト書きだけで書かれた本をどう楽しんでいいか全く分からない。っていうか演劇自体ほとんど観たことがないし。何これ? なんでそんな大袈裟に喋るの?って感じ。
ありがたいはずのシェイクスピアが全くありがたくない。苦痛。一応義務感だけで最後まで読みましたけど、感動も何もなかったですね。これがボクの戯曲初体験。
この時の感覚は今でも大事にしてます。
もちろん今はシェイクスピアの時代の演劇がどういう場所でどういう時間にどのように演じられていたかを知っていますので、あの華麗なセリフまわしの意義も凄さも分かっているつもりです。でもそれらの前提に支えられなければ、シェイクスピアだって意味がない。
ボクは、警備会社でバイトしてた時の自分が客席に座っていると想定して脚本を書いていきたいと思ってます。

『ジム・ジャームッシュ』東宝株式会社出版/18歳

映画学校に入学してすぐに買いました。18歳。たしか新百合ヶ丘のヴィレッジヴァンガードで。
今でも一番好きな映画監督は? と、聞かれたらジム・ジャームッシュと答えます。特に『ナイト・オン・ザ・プラネット』『ミステリートレイン』『ダウン・バイ・ロー』が好きで何回観たか分かんない。もちろん最初の出会いは映画館じゃなくてビデオ。高校時代のボクは人生の出会いをレンタルビデオショップに求めてました。でもどんな映画が面白いか相談できる相手はなく、情報をどこから仕入れればいいのかも分からない。だから頼りは直感だけ。つまりジャケ借り。店でひたすらジャケットとにらめっこしてこれだ! と思ったものを片っ端から借りていく方法をとってました。で面白かったら監督の名前をチェックして次はその監督の別作品を借りていく。これでいろんな監督と出会いましたが、その中でも一番好きだったのがジム・ジャームッシュ。
この本自体はジムのインタビューが少しと、後は日本人が書いた評論とかジムのいない座談会とか、ジム本人じゃなくてビデオを見ながら日本人が起こしたシナリオが収録されてる位で、本としての出来はイマイチ。でも当時のボクにはそんなこと全く関係なくて、めちゃくちゃ刺激をもらいました。いや、もらいすぎて、映画学校で書いたボクのシナリオは、友人に「模倣の臭いがする」と一蹴された次第。字幕の作品ばかり観てたので自分の書くセリフも言葉ではなくて「文字」を書いてしまって、それも友達や講師によく注意されたなあ。ある講師からは「お前のが一番悪い!」とまで。「うるせえ、お前なんかに分かってたまるか」って思ってましたけど。
そういえば、去年ベイビーシアターの演出家ジャッキーと映画の話になって「好きな監督は?」って尋ねたら「ジム・ジャームッシュ」って。なんだか、遠い昔から知り合いだったみたいな気分になって、ちょっと嬉しかったなあ。

『ごあいさつ』高田渡/18歳

これは本ではなく、1971年に発売されたレコードの復刻版CDの歌詞カード。18歳の時に友人から「お前はこれを聞け」と渡され、最初は訳が分からず聞いていたが、やがて歌詞のある歌は高田渡しか聞かない、というくらい傾倒し、その状態は20代中頃まで続いた。
高田渡が他のフォークシンガーと圧倒的に違うのは、他者の詩を歌ったということだと思う。このアルバムの中には山之口貘、ラングストン・ヒューズ、有馬敲、ウディ・ガスリー、添田唖蝉坊といった19世期から20世期にかけて活躍した詩人や演歌師の詩が収められていて、ビキニ環礁での水爆実験がマグロの夫婦の視点から描かれたり、ある店が値上げに踏み切るまでの心情と言い分を延々と歌い上げていたりする。
それまで歌というものは自分の気持ちを代弁してもらうものだとばかり思い込んでいたボクは、歌を通して他者を見つめたり、社会を風刺できることに衝撃を受け、それまで「カッコいい」と思っていた歌がどうにも薄っぺらく感じられ、高校時代に集めたCDをほぼ全部処分してしまった。続いて、高田渡が歌う詩人達の詩集を集めたが、これはいくら読んでも頭に入ってこなかった。「詩は本来歌われるべきもの」という高田渡の言葉の通り、詩は歌を通して反芻される中で、はじめて自分の体の中に入ってきたのだ。

高田渡のライブには3回足を運んだ。
そのうちの一回に苦い思い出がある。高田渡は歌の合間に挟まれるトークにも人気があり、その中でも特に「自宅の電気が15W契約だからドライヤーを使う時には部屋を真っ暗にしなければならない」という話が有名だった。その話になった時、ボクは高田渡の話を遮った。「高田さん、その話は聞きました。別の話をしてください」。
会場は凍りついただろうか。全く覚えていない。周りなんて全く見えていなかった。
人として弁解の余地もないが、当時のボクは「自分が何者か」ということを人に主張しなければ生きていけなかった。しかし何かを作っているわけではないし、行動しているわけでもない。結局相手に食ってかかることでしか自己主張が出来なかったのだ。自己顕示欲を振り回して沢山の人に迷惑をかけ、当然多くの人に嫌われた。人に好かれることなんてどうでもいいと思っていた。それより自分が何者なのかを知りたかった。もちろん心の底では人に好かれたくてたまらないわけだから自己矛盾が起きる。これが圧縮爆発すると人は自殺をしたり犯罪を犯したりするのだろうが、ボクが当時そうならなくてすんだ理由は、似た者同士の友人が周りにいたこと、そして実はそこまで物事を突き詰めて考えるタイプではなかったからだと思う。この時21歳。その翌年、高田渡が心不全で急逝した。見た目は仙人みたいだったが、56歳だった。結局ボクは高田渡に感謝の意を伝えられなかった。
そのこともあって、ボクはそれから何かを見て感動した時には、その思いをなるべくまっすぐ相手に伝えるようにしている。しかし、言われた方は突然興奮した人間が近づいてきて熱く語り始めるので何か裏があるのではないか勘ぐるらしい。劇作家・演出家の叶雄大氏は「この人、俺をどこかに売り飛ばすつもりか?」と警戒したという。結局今も周りが見えていない。

『Чебура́шка』(チェブラーシカ)/20歳

「どうして人形劇団に入ったんですか?」と、聞かれる事があるが一言で言えば「間違えました」ということになる。ボクは「人形劇」と「人形アニメーション」を間違えて人形劇団ひとみ座の研究生になってしまった。そのきっかけになったのがロシアの人形アニメーション『チェブラーシカ』。

初めての海外旅行はロシアだった。この本は民泊でお世話になった家のおばさんからいただいた。ロシア語を全く話せないボクがチェブラーシカのことばかり話すので、「そんなに好きなら」と持たせてくれたのだ。
ロシアには、富山県の伏木からフェリーで入った。ウラジオストクから片道一週間のシベリア鉄道に乗ってモスクワへ。そこからさらに古都サンクトペテルブルクまで北上し、同じルートでウラジオスクまで戻り、最後は飛行機で新潟に飛んだ。一ヶ月の旅路の内、半分は電車に乗っていた。20歳だった。
チェブラーシカは愛らしい作品だが、ボクが惹かれたのは作品の影の部分だった。主人公のチェブラーシカは自分が正体不明の存在であることに劣等感を持っている。そんな気持ちや、物語のラストで電車に乗ったチェブラーシカとゲーナの向かう先の空が青空ではなく、どんより暗い曇り空であることに当時のボクはたまらなく感動した。実生活で自分と向き合う事がうまくできなかったボクはチェブラーシカに共鳴し、「ここじゃないどこか」を求めロシアに行き、この本と出会った。
ただ、この絵本にはそういう暗さは一切感じられない。人生の哀愁を思わせる作品の影は、きっとロマン・カチャーノフ監督の脚色だったのだろう。

一方ボクは、ひとみ座に入って程なく「間違えた!」ということに気がついた。人形アニメーションは映像作品、人形劇は生の舞台芸術、同じ「人形」が出てくるにしても全く別物だったのである。
でも、面白かったので辞めなかった。
面白かったのは人形劇ではない。ひとみ座にいる人間と、旅公演が面白かった。人形劇や生の舞台芸術の面白さに気づくには、あと数年を要することになる。

『一年一組せんせい あのね』鹿島和夫/灰谷健次郎/21歳

映画学校を卒業してひとみ座の研究所に入った頃、学童保育ではないのだが、それに近い環境でバイトを始めた。一緒に働いていたのは大体地域のお母さん達で、21歳のボクは校庭で子ども達とひたすら一緒に遊んだ。サッカー、野球、虫取り、鉄棒、鬼ごっこ。他に、物を隠して鬼がその近くに行ったらみんなで「暑いよ暑いよ!」、離れたら「寒いよ寒いよ!」と教える謎のゲームもよくやった。
遊んでいると大体誰かが怪我をする。そしたらボクがその子をスタッフリーダーの元に連れていく。その間ボクは再び遊びに戻り、やがてリーダーに応急処置を施されたその子も戻ってくる。当時は「F1のピットインみたいだな」と思っていたが、怪我をしたからといってその遊びを禁止しなかったリーダーは、今考えれば骨のある人だったと思う。そのリーダーの上に立つ館長はさらに強者で、おそらく60代に差し掛かっていたと思うが、骨折した巨躯をもろともせず、ハーレーを乗り回す姿はラピュタに出てくるドーラさながらだった。この館長の独断で、ボク達は子どもと一緒に海に行き、プレーパークに行き、秋になったらサンマを焼いた。特に羽根木のプレーパークで館長が「ここはゴミと怪我は持ち帰りだからね」と言った後の子どもらの集中力は忘れられない。落ちたら骨折では済まないような木の下でオロオロするボクには目もくれず、子ども達は普段見せたこともない表情で大木をのぼりきり、ボクを見下ろして手を振った。問われていたのは大人の覚悟だった。

その当時出会ったのがこの本。ここには、その覚悟を持つ大人だけが垣間見る事ができる子ども達の美しい表情と本音が収められている。

ただ、これがきっかけでボクも児童演劇に本気で打ち込みだし……とはならない。ボクは当時脚本の勉強などは一切せず、ウクレレばかり弾いていた。
実はこの投稿はウクレレの演奏付きである。
曲名は『小さな友だち』。
まおやまるやバンちゃんやくまやまいちゃんのことを思い出しながら昨日弾いた。2分ジャストのインストロメンタル。良かったら聞いてください。

「司馬遼太郎が考えたこと4」司馬遼太郎/22歳〜

国家は信用すべき対象ではない、という事をボクは司馬さんから学んだ。
その後『ちゃんぷるー』や『トッケビ』という作品を書くにあたって沖縄や韓国に行き、肌感覚としてその思いを新たにしたが、もともと司馬さんから受けた大きな影響が下地になっていた。
多くの人が、司馬遼太郎という作家に「明治国家を賛美した右寄りの作家」というイメージを持っているようだが、ボクの印象は全く違う。
司馬さんは、文化功労者に選出された時、自らの作品を「22歳の自分への手紙」と話したそうだが、その原体験がこのエッセイ集の中に収められている。

1945年の当時、司馬さんは戦車隊として日光にいた。アメリカ軍が横須賀から本土上陸をしてきた時に首都を防衛するためだ。だが一つ疑問が残る。
「もしアメリカ軍がやってきたら東京に住んでいる人々は家財道具を大八車に積み込んで日光街道をこちらに向かって逃げてくるだろう。そうすれば東京に向かう我々の戦車隊と鉢合わせになって道は大混乱となる。これについて上層部はどう考えているのか?」
若き司馬さんは大本営からやって来た参謀少将に疑問を投げかけた。
「軍の任務が優先する。ひっ殺していけ」
国家は国民を守らない。国家は国家という組織を守るために存在している。

司馬さんの持った強烈な違和感は、書物を通じて確かにボクの中に入ってきた。
ただ、それはこの本一冊からスッと入ってきたものではない。他のエッセイ、講演集、対談集、紀行文、そして司馬さんの本業である歴史小説も含め、おそらく百冊を超える書物を20代前半から後半にかけて数年間かけてゆっくりゆっくり取り込むことで入ってきた。
そして上記エピソードは、司馬さんの生き方を決定づけたものの、司馬さんという人間の真の魅力を語る話ではない事も付け加えておきたい。
司馬さんの真の魅力とは、「大正時代くらいまで長崎県対馬の北西部に暮らす人々は虫歯になったら島の中心部である厳原(いずはら)ではなく、船に乗って韓国で治した。そっちの方が安く腕も確かで、また道のりとしても近かったからである」などといった具合に、きな臭いナショナリズムに染まる以前の人々の素朴な生活を細い目で見つめている時の横顔にある。

ブックカバーチャレンジはこれで終了です。
ルールを無視して10代から20代中盤までの読書遍歴を当時の思い出とともに語りました。結局演劇関係の本はほとんど出てこなかったですね。遊んでばかりいたんだなあ〜
また、最初に申し上げました通りいただいたバトンもこのまま置かせていただきます。緊急事態宣言も続々と解除され、自粛生活下の中で広がったこのブックカバーチャレンジも収束を迎えることでしょう。
さあ、新しい読書始めるぞ。


この後ボクは一気にやる気を出し、演劇の勉強をしゃにむに始めます。そのころの事や小学生、中学生の頃などはまた別の機会に書いてみたいと思います。

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