『はれぶた』が教えてくれたこと その1「人形 > ストーリー 」

この春ひとみ座の元同期生と一緒に作った新作『はれときどきぶた』は、本当に色々なことをボク達に教えてくれました。その一つ一つを振り返ってみたいと思います。

目次

「人形 > ストーリー 」

これは「人形劇において人形の存在は、筋よりも重要である」ということです。…多分いま多くの劇作家を敵に回してしまいました。でも事実なのだから仕様がありません。少なくとも、ボクははれぶた製作を通してこのことを痛感しました。いや、これは実は今回の作品づくりだけでなく、この数年間ぼんやりと感じ続けてきたことです。ラオスの人形遣いTo Khaoniewlaoの遣う人形を目にした時、ひぽぽたあむの作品と出会った時、そしてひとみ座の『ふたりはともだち』を通して。それらが今回はれぶたという作品で一気に結実したのだと思います。では、「人形劇において人形の存在は、筋よりも重要である」とは、どういうことか、具体的に振り返っていきます。まずその前にはれぶたのストーリーを確認しておきましょう。

はれぶたのあらすじ

主人公の畠山則安は小学3年生。則安は、人に比べて特に秀でているところがある少年ではありませんが、唯一自慢できることがあって、それは一年近く毎日日記をつけているということ。しかし、その大切な日記帳を母親が盗み見してしまいました。怒った則安は、母親をギャフンと言わせてやろうとこんな事を日記帳に書き始めます。

「トイレに蛇が出た」

「お母さんがえんぴつを天ぷらにした」

「金魚があっかんべーをした」

「お母さんの首が伸びた」

「空からぶたが降ってきた」

するとどういうわけか、これらが全部ホントのことになっていき…(以下略)

これがはれぶたの筋です。昔読んで、うる覚えという方も「空一面に浮かんだぶたの絵」は、覚えているのではないでしょうか。とにかく、飛躍に富んだ素晴らしいストーリー展開をはれぶたは持っています。その上、人形劇特有のギミックも存分に活かせそうです。でもそれでは人形劇という表現手段の表面に触れたことにしかならないのではないか。今回演者達と稽古場で悩み続けたのはまさにそのことなのです。

はれぶたの核

まだ、よくわかりませんね。もう少し順序立てて考えるためにはれぶたの核を考えてみたいと思います。つまり一言でいうなら、はれぶたはどういう作品か?

「空からぶたが降ってくる話」

違います。確かにそれは本作のクライマックスであり、ナンセンスコメディーの世界観をもっとも体現した場面ですが、ナンセンスは本作のスタイルであって、核ではありません。

「お母さんに日記を見られた話」

これがはれぶたの核です。小学3年生の男の子のプライバシーが母親によって侵害された事こそが本作の一番の事件であり、それに対する息子の抵抗が、これから起こる全ての事件のきっかけとなっています。大切なのは3年生という年齢設定です。これが1年生では成立しません。1年生ならそもそも毎日日記をつけないでしょうし、もしつけていたとしても、母親に見られたからといって怒ったりしないでしょう。むしろ喜んでその内容を見せると思います。2年生でも微妙。3年生だから日記を見られた事が大事件になるのです。自我の目覚めですね。この頃から子どもは少しずつ母親(父親)から離れていきます。具体的にいうと体に触れなくなります。抱きつかない。手を握らない。いや、まだ甘えたい気持ちもありますから全く触れないという事はないと思いますが、触れる事をお互いに意識するようになる。これは自立の始まりだと思うのですが、親は、体よりも頭で生きているので息子の変化を受け入れがたい。ですから「ま、いっか」と思って日記を見てしまう。自立を始めた子どものプライバシーを無意識に侵してしまう。そこに息子が猛然と抗議をしてくる。それが則安の「デタラメ日記」です。なんともユニークな反抗です。これが結果的に先に述べたストーリーへと発展するのですが、この作品が「親離れ・子離れの発端を描いている事」を見落としてはいけません。

いや、これが核だなんて、原作者に確認したわけではないのですよ。でも少なくともボクは、原作をそう捉えて脚色をしています。その時には矢玉さんの著書「心のきれはし」からも大きな影響を受けました。素晴らしい著書なのでその紹介もしたいのですが、それはまた別の機会に。

話を戻しまして、則安は、母親に対抗しようとして、

へび→えんぴつの天ぷら→金魚→首→ぶた

と、メチャクチャな事を日記に書いていきます。そしてそれがことごとく本当になっていく。則安は慌てます。この様子が面白いのです。子ども達は、「則安」に寄り添いながら物語を楽しんでいます。自然ボク達はこう考えます。

「では子ども達が則安と寄り添ってもらうためにはどうすべきか」

ボク達の選択は、「人形に体を持たせる」ということでした。

人形に体を持たせる

これは、どういうことかというと「リアリティーを持たせる」ということです。リアリティー…よく聞く言葉ですよね。でもこれはリアルに、ということではありません。実際に人形の写真を見てみましょう。左が則安、右が妹のたまちゃんです。

ご覧の通り全然リアルな造形ではありませんね。頭が体の半分くらいあります。省略&デフォルメこそ人形劇の魅力ですからリアルとリアリティーを持たせることは別物です。ではこれらの人形にどうやったら人間としてのリアリティーを感じてもらう事が出来るでしょうか。
本作で最も大切なアクションは「日記を書く」ことですから、その行為にリアリティーを持たせる事ができれば、人形が生き生きとした体を持つ存在になるのではないか、ボク達はこう考えました。そして出来上がったのが以下のアクションです。演者は左から順に森下勝史、松本美里、来住野正雄。則安の役は松本さんです。彼女が則安の頭(頭)と左手を遣い、則安の右手は森下くんが遣っています。

はい、これだけです。たったこれだけの事ですが、途中、則安が文章に困って頬杖をついたところで子どもの笑い声が聞こえてくるのが分かりますか? こんなのもあります。

ここでも子ども達は笑っています。「何してるの?」「日記」というやり取りで笑いが起こるのです。別に面白いやり取りではありません。では子ども達は、どうして笑っていると思いますか? これは多分「承諾の笑い」なのです。「分かる分かる!」って。兄のする事が気になって仕様がない妹、妹が邪魔な兄。この何気ない日常のやり取りを子ども達は「分かる分かる」「知ってる知ってる」と承諾してくれているのだと思うのです。日記のところも多分そうです。笑い声をあげた女の子は文章が詰まった時の「う〜ん」という感じを知っているのでしょう。だからつい笑っちゃう。この時に大切なのは人形の「体」です。頬杖をついた時の則安の「まぶたの動き」、兄に近寄る妹の「足取り」、机への「手の乗せ方」「目線」、それを「一瞥する兄の視線」。それら体の動きを的確に表現すれば、子ども達の体が「知ってる知ってる」と反応を返してくれる。子ども達が大人よりも豊かな体の言葉の世界に生きていることは、以前このブログで書きました。

『体の言葉』 ~姪っ子が改札で止められて気づいたこと~

これの人形劇的実践ですね。
突然壮大な話になりますが、人類はサルからヒトへの進化の過程で、生き残るために共感能力を育んできたと言われています。その共感能力は、言語よりも体から発せられる情報量の方がはるかに大きいと思うのです。いや、言語も本当なら声・息の中に大きな情報が入っているはずなのですが、言葉を記号化して使うようになってからは言語そのものの情報量が乏しくなってしまったのでしょう。それもそれでセリフを考える時にとても重要な要素ですが、今回はそれはさておき、体の信号の話です。

体の信号を人形が体現する事ができれば、モノであるはずの人形が体を持つ。すると客席にいる子ども達の体との間に「同期」が起こるのではないか、この「同期」こそ、感情移入の正体ではないか。そういう事が少しずつ分かってきたのです。

こうして出来上がったのが、則安とお母さんのファーストコンタクトシーンです。お母さんが則安の日記の内容についてこぼす場面。原作では台所の場面として設定されていますが、ボク達は体の言葉も含めて表現するためにこのように作りました。

はい。掃除です。母親がもっともガサツに子どものプライバシーを侵害する瞬間ですね。ト書きで書くと「掃除をしているお母さん」と1行ですが、実際にはお母さんは登場からセリフを語り始めるまで45秒間掃除をしています。(動画では端折ってます)この45秒間があってこそ、この物語のアンタゴニスト(敵対者)たる母が存在感を持ってくれます。ここでは、登場と退場間近のところで大人の笑い声が聞こえてますね。まさにその方の「分かる分かる!」だったのでしょう。

人物の存在があって初めて物語が始まる

つまり冒頭で「人形劇において人形の存在は、筋よりも重要である」と書いたのは、こういうことです。45秒間も喋らないのは俳優にとっても勇気のいることです。その45秒間ストーリーは止まってしまうのですから。しかし、俳優(人形)は、ストーリーを前に進めるための存在ではありません。観客と繋がりを持つための存在です。そのためには、まずしっかりとそこに存在すること。その存在の肝は体であること。特に体を持たない人形であるからこそ、そこに人間の体を連想させる事が大切になる。こういう事が今回少しずつ分かってきたのです。2年前に「1年1組パペットシアター」の批評対話(ゲキミテトーク)の席でクスノキ燕さんが言いました。

「人形が出てきてあくびをしただけで、それがちゃんとあくびをしていたら子どもは笑うからね」

その意味が今は分かります。そうした観客との繋がりがあって、初めてそこから物語が始まるのですね。

この記事は、「はれぶたが教えてくれたこと」と題しましたが、考えるための材料は、冒頭で述べた通りこの数年間で出会った人々、作品から数多く得ています。
今回は人形> ストーリーについて振り返りましたが、『はれぶた』の制作過程では、他にも色々と考えた事、実践した事、挑戦したことがあります。それらを振り返ることは、今ボク達の周りにある児童演劇・人形劇・子ども達について考えることにも関わってきます。というわけで、次回は「インプロ」について振り返ります。はれぶたは、稽古場でのインプロを用いて脚本が書かれました。これは児演協で続いている西田豊子さんの講座「劇作講座〜作家と俳優と観客が出会って戯曲が生まれる〜」の人形劇バージョンの挑戦となりました。

最後に告知を…
はれぶた次回の公演は、以下です。ぜひよろしくお願いいたします。

子どもと舞台芸術 大博覧会 in Tokyo 2018(はれぶたは8月1日参加)

子どもえんげきさい in きしわだ(はれぶたは25日参加)

あ、でもその時は上に書いたようなことは忘れて、子ども達と一緒にまっさらな心で楽しんでくださいね。子ども達の反応は、どんな理論よりも骨太で本物ですから。

こちらは『はれぶた』予告動画です。

この記事が面白いと思ってくださった方は、シェア・いいねをお願いします。励みになりますー

関連記事

※その他アカウントはこちらから 

テキストのコピーはできません。
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。