はれぶたが教えてくれたこと2 「デバイジングへの挑戦」

はれぶたは、デバイジング(集団創作)によって生まれた作品です。会議ではなく稽古場で、脚本ありきではなく実験ありきで作品が形作られていきました。

まずは動画をご覧ください。

肝心の真ん中をすっ飛ばしていますが、ダンボールや仮物の人形を使い実験を繰り返しながら作品が生み出された事はこの動画から感じていただけるのではないでしょうか。
このように演出家と俳優が一緒になって試行錯誤しながら作品を作っていく方法をデバイジング(集団創作)と呼びます。演劇の世界ではもう定着していますよね。 はれぶたは、その人形劇バージョンでした。すでに人形劇でデバイジングを取り入れているという方も、まだの方も、是非はれぶたの挑戦をご覧いただければと思います。もしかしたらあなたの創作のヒントがどこかに隠れているかも知れません。

なぜデバイジングか?

そもそもなぜはれぶたでデバイジングを取り入れようと思ったのかといいますと、理由は沢山あるのですが、「人形遣い主導で作品をつくりたかった」ということがあります。それまでボクがひとみ座で関わった企画の多くは、脚本・演出・人形美術が先行することが多く、人形遣いは、出来上がった脚本と人形を渡されて稽古から合流してくる、という存在である事が多かったのです。そうするとどうなるかといいますと、稽古が終わって毎日人形を直すという日々がやってきます。自分の人形をもっと動くように工夫するんですね。でも、「それって人形美術の打ち合わせの時になんとか出来なかったのかなあ」という思いがありました。う〜ん…ここは、メチャクチャ誤解を生みそうなところなので説明を丁寧にしておきたいのですが、大前提として「必ずしも稼動部の多い人形が『よく動く人形』ではない」という事があります。人形の動く・動かないという基準は、物理的な動作ではなく「観客の想像力を刺激したかどうか」にあるわけですから。
そして美術打ち合わせの時には、もちろんその事を熟知した演出家、美術家が自らの経験を素に責任を持って判断を下しています。しかし、それでもやっぱり稽古場では直しが出る。これはもう仕方のない事なのです。「観客の想像力を刺激できるかどうか」というのはそれくらい難しい。ですから、結局「直しながら作っていくしかない!」んですね。でも現場の直しには限度があります。デザインを根底から変える事はできませんし、稽古は時間との戦いでもあります。ましてそこに人形の特性と脚本が合致しているかという問題も孕んでいるわけですからもう大変なんです。ですからボクはこう考えました。

じゃあ、最初から会議なんてしないで俳優と稽古場に入っちゃおう

というわけで、はれぶたの稽古は「脚本を持たずに」スタートしました。用意したのは、原作と別作品の人形とテーブルのみ。

 

 

みんな半袖ですね。これは、2017年8月8日の写真です。はれぶたの初日は2018年3月24日でしたから、ボク達の稽古開始は、本番の7ヶ月以上前の事でした。時間に余裕がある分たくさん遊びを取り入れて作品を作る事ができました。例えばこんな…

演出家ごっこ

三人の役者にそれぞれ演出家になってもらい、原作の三つの場面

  • トイレに蛇が出た
  • お母さんが鉛筆を天ぷらにした
  • 金魚があっかんべーをした

を演出してもらいました。その時の稽古日誌がありますのでちょっとみてみましょう。

8/8 全員演出

○今日は、三つの場面を演じてもらった。

・蛇

・鉛筆のてんぷら

・金魚

三人をじゃんけんで割り振り、それぞれの場面の演出家になってもらった。遊びである。演じてもらった後、三人に「面白かったところ」と「違和感のあったところ」を聞いてみた。

「面白かったところ」

…歌で進めたところ(鉛筆のエピソードは歌で進めていた)。ミュージカルは楽しい。飛べる! パラレルに入れる。
…日記の出し方。(日付を数字で出して、絵を見せつつ、あとは口頭で語っていた。)天気の出し方とかも楽しめそう。
…トイレ(人形に合わせた)小道具を出したり、出さなかったりしたところ
…キッチン楽しそう。
…則安より、周り(父と母、たまちゃん)が大変。
…金魚を再現VTRにしたところ
…学校どうするか→省略した

「違和感のあったところ」

…つなぎが難しい。単調になる。
…地の文とセリフ、どういうバランスにするか。(地の文が長すぎる)
…地の文を読みながら人形を遣うのは違和感。
…舞台が真ん中に集中をしないように。
…回り舞台も面白い。(つまり、則安のいる舞台を語り手がくるくる回すという…)

「西上感想」

……役である時、語り手の時、その変わり目。メリハリが効いたところが面白い。猫を演じた後にすぐさま美里さんが猫の人形を投げて捨てお母さんに戻ったところ。「演じている」事を観客に示す二重構造。これが理屈でなく瞬間で共有されたときのおかしさ。段々と飛躍する「はれぶた」の世界に合いそう。大切なのは、バランスであるが、この辺りはセンスか。
…則安を持っている人は,ほかの人形を持てるか。人が足りないから、近いから、という理由で則安を遣っていた演者がたまちゃんや他の人物を演じてしまうと、「則安の心象風景」が壊れてしまう気がする。かといって、則安に一人の演者が縛られてしまうのももったいない。それは、人が一人取られる、という意味ではない。観客の想像力もそこに縛られる、ということを意味するからである。しかし、違和感は無視できない。「いかにすれば、演者が則安から離れられるか」が『はれぶた』人形劇化においてかなり重要な要素となる…以下略

このように、遊びを取り入れた後には毎度振り返りをしました。「面白かった?」「違和感は?」という質問。面白かったところには表現者としての飛躍の喜びが隠れているでしょうし、違和感からは観客の想像力を喚起できなかった理由を考える事ができます。
先ほど人形を動かすという事は、「観客の想像力を動かす事」と申し上げましたが、ボク達はこの難問について、会議室での話し合いで迫るのではなく、稽古場でモノと体を動を使って遊びながら迫っていったのです。

散らかす

遊びで重要なのは「散らかすこと」ですね。遊ぶ前から片付ける事を考えていては思いっきり遊ぶことなんてできません。ですから遊びについては「実際に本番でやるかどうかは別問題」として、とにかく好きに、自由に、無責任に遊んでもらいました。ボクは特にワークショップの方法論を持っているわけではないのですが、ここは、『ちゃんぷるー』の経験が活きました。あの時は、36人で一本の脚本を書く! という途方も無いプロジェクトでしたが、結局その時の突破口は「とにかく楽しむ!」という事だったので。
いや、それにしてもプロの人形遣いに「好き勝手遊んでください」というと本当に色々やってくれますね。ダンボールを切ったり貼ったり、どんどんものを作っていく。

 

この企画の言い出しっぺである松本美里さん(写真右)なんて、通販で買った手品セットを稽古場に持ってきたりして「お母さんの首が伸びた」の場面で自分の首を伸ばしていましたからね。(当初のプランではお母さん役は人間が演じることになっていました)
結局、お母さん役も人形でいくことになったので、手品セットは無駄になってしまったのですが、遊んだこと自体は無駄になりません。人間の首を伸ばすためには、錯覚を用いなければならないけれど人形なら実際に伸ばす事ができる。それなら徹底的に伸ばしてみようじゃないか! と思えるようになったのですから。(え? 最初からそう思わなかったの? というツッコミはなしです。他にも色んな事情があったのです)
とにかくデバイジングは多分散らかした者勝ちなんですね。

振り返り

もちろん、散らかすだけではいけません。先のお母さんの表現しかり、散らかした内容を冷静に受け止め、振り返り、そこに芸術的選択を見出せるか、ということが勝負の分かれ目になります。
もう一度、先ほどの稽古日誌を見てください。最後にこんな事を書いています。

則安に一人の演者が縛られてしまうのももったいない。それは、人が一人取られる、という意味ではない。観客の想像力もそこに縛られる、ということを意味するからである。しかし、違和感は無視できない。「いかにすれば、演者が則安から離れられるか」が『はれぶた』人形劇化においてかなり重要な要素となる

人形劇において新しい表現を探る時に要となるのは、人形と遣い手の関係です。1人の人間がその人形に縛られるということは、観客の想像力を限ってしまったことになります。これは落語を例に考えてみると分かりやすいのですが、落語は「1人の語り手による語り芸であること」を観客に明示することによって、何人もの登場人物を登場させる事を可能にしています。つまり落語が自然に聞ける(2人以上の登場人物のやり取りを自然に聞ける)ということは、それは観客の想像力によって成り立っているということになります。落語を聞く=想像力を使っているなんですね。
この人形劇バージョンをやってみたかった。理屈で考えると、主遣いが変更したり、人形を置きっ放しにする場面が入るというのは、おかしい事なのですが、その理屈を超えてこそ表現。ボク達は振り返りの中でそんな確信を持ちながらこんな場面を作りました。

 

則安の人形が主遣い(松本美里・右)の手から離れている。則安が劇的世界に入り込んでいく瞬間。

この場面におけるボク達の選択が正しかったのかどうかという事につきましては、本番をご覧いただき皆様の判断を仰がなくてはなりません。そしてこれだけ大げさに事のあらましを語っておきながら、もし成功していたとしても誰もその事で感動してくれるわけではありません。落語家による対話部分の演じ分けがことさら特別ではないように、ボク達が試行錯誤を繰り返した場面も、特になんということもなく過ぎ去っていくでしょう。もしそうなっていたとしたら、それがボク達にとっての大成功です。理屈を超えても自然でいられるというのは、「想像力を動員できた」という事なのですから。

そしてその審判は評論家ではなく、子ども達に仰ぎたいというのがボク達の考えです。人形が子ども達の豊かな想像力の依り代(よりしろ)に成り得た時の喜びは他に耐え難いものです。その喜びの状態に身を置く事が、きっと「人形を遣う」という事なんでしょう。それは途方もなく難しい事です。人形を遣う技術だけでなく、人形と遣い手の関係も含めて考慮されなければなりません。
ましてすでに確立されたスタイル(例えばケコミ)を用いるのではない場合にはなお難しい。会議先行で見つけ出す事はよほどの天才でもない限り出来ません。少なくともボクにはそんな自信はありません。こういう事は、やればやるほど分かってくる。だって、ボク達はデバイジングによる模索を本稽古とは別に5期に分けて計16日間も行ったのですが、結局本稽古でも毎日人形を直してたんです!(笑)

いやあ、人形劇は難しい。人の想像力と向き合う仕事だから。
でもだからこそ面白い!

デバイジングという創作方法が人形劇のより深い世界を覗かせてくれた事は紛れもない事実です。そして、その中でひとみ座の先輩方の凄さも改めて実感。どれだけ多くの人の協力を得ながら進んだことか。本当に幸せな創作の日々でした。

というわけで、今回ははれぶたデバイジングの日々の一端をご紹介いたしました。
本当は、インプロ(即興)を用いた稽古風景についてもご紹介したかったのですが、ちょっと長くなりそうなのでそれはまた別の機会に。他にもiPodを使って音響・照明をワイヤレスで操作する方法などもご紹介したいと思っています。

マニアック過ぎてすごく需要の低い記事ですが、これがどなたかの創作のヒントになってくれるのではないかと思って書きました。ボク自身もデバイジングの面白さについては児演協の「劇作講座」で教えていただきましたし、「借り物でどんどん稽古を進める」という方法は、名古屋の人形劇団むすび座さんではオーソドックスな方法だと聞いています。色んなところから刺激を受けて自分たちの作品づくりを模索しています。ボク達の報告がどなたかの刺激になる事ができましたら幸いです。
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ではまた。本日も最後までご覧いただきましてありがとうございました。

はれぶた・2018年夏の公演情報はこちら

子どもと舞台芸術 大博覧会 in Tokyo 2018(はれぶたは8月1日参加)

子どもえんげきさい in きしわだ(はれぶたは25日参加)

別記事のご紹介

現代演劇人の宿命 ~モンテッキ氏の論文「技術の役割」を読み解く~

2015年日本ウニマの勉強会で発表したものです。ケコミ人形劇に対する挑戦を表明したものです。はれぶたは、この時の自分に対する一つの答えでもありました。

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