『体の言葉』 ~姪っ子が改札で止められて気づいたこと~

「甥っ子姪っ子は演劇の先生! 」シリーズです。
甥っ子姪っ子は、遊んでいる内に演劇について様々な事を教えてくれます。
今回の発見は「体の言葉」について。「子供は演劇を体全体で受け止めている」とは、よく言われることですが、具体的にはどういう事か。子供に届く言葉、届かない言葉の差を姪っ子の経験から考えてみます。

6歳の姪っ子と9歳の甥っ子と一緒に日生劇場に向かった時の事です。
姪っ子が自動改札でピンポン! と、止められてしまいました。
改札には「駅員が来ます。そのままお待ちください。」の文字。
それまで歌をうたって上機嫌だった姪っ子の表情が固まりました。心当たりがあったからです。というのも、姪っ子は僕の渡した切符を電車の中でグニャグニャに折り曲げて遊んでいたのです。お兄ちゃんから「やめろ!」と、注意されていたのですが、妹は基本的に兄の言う事を聞きません。僕も子供が失敗する機会はなるべく保障されるべきだと思っているので放っておきました。(オヤではなくオジなので余計に)そして案の定、グニャグニャの切符は、改札機にはじかれたというわけです。
駅員が走って来ました。改札機を開けて、詰まった切符を取り出すと、「折り曲げると通らなくなっちゃうんで。」僕に言ったのか姪に行ったのか言葉の宛先は不明瞭でしたが、とにかく注意していなくなりました。
姪っ子は固まったまま。お兄ちゃんは「ほら!」と妹にいましめ。僕は、姪っ子にニヤッと笑いかけました。
三人歩き出すと、姪っ子が手を引っ張って来ました。だっこの要求です。

子供は不安な時、体をくっつけたがる。

最近、そういう事が分かるようになってきたので、要求のままだっこしました。姪っ子は、心のアンバランスを体の安定で乗り切ろうしています。

ここまでの間、姪っ子は一言も喋っていません。改札が鳴ってから「ヤバイ!」という空気を一瞬で察知して黙ります。これから起こる事を見逃さないように必死に観察するためです。駅員がやってくる。何か自分に言っている。もちろん、自分が折り曲げた切符によって今の事態になったことを理解している。自分が注意された。因果関係はここで理解。でも注意された自分の心はザワザワ。くっつきたい。叔父にだっこの要求。ギュッと抱き着く。落ち着くまでこのまま。
ものすごくダイナミックな心の動きがそこにあったと思います。いや、逆ですね。子供にとって改札ではじかれる、というのは大事件です。(普段電車に乗らない沖縄の甥っ子姪っ子にとっては余計に)その大事件の起きている最中、言葉なんか使ってる余裕はありません。思考のスイッチから本能のスイッチに切り替えて、この場を理解していかなければとても乗り切れない。そのためには黙ってひたすら観察です。そこで流れる空気の変化にアンテナの感度を最大にして臨まなければ「どうすべきか」は判断できません。
甥っ子が妹に「ほら!」といったセリフが駅員の立ち去った後、であることを見逃してはいけません。「事態は過ぎた。もう大丈夫。」という安堵感の中で発せられた言葉なのです。むしろ一度漂った緊張感にケリをつけるように言葉が発せられています。姪っ子が僕の手を取るのはもう少し後、姪っ子にとって「場のおさまり」を察知するのに、この兄の嫌味や僕のニヤリという笑みも判断材料の一つになっています。姪っ子はここで安堵しました。ただ、マイナスに働いた心のざわめきは、埋め合わさなければなりません。だからくっつく。

こういう事は、だれが教えるわけでもなく出来るんですね。すごいアンテナを持っている。すべての子供たちは、このアンテナを生きていくために持っているのではないでしょうか。こんな素晴らしいアンテナを使わない手はありません。姪っ子は、アンテナを最大限生かすことで、ものすごくダイナミックな体験をしました。そこに学びがありました。子供は、言葉で知りたいのではなく、自分の体で学びたいのです。あまりに雄弁なこのアンテナを僕はこれから『体の言葉』と呼ぶことにします。さて…ここで、この姪っ子たちとの経験がアーティストとしての自分に跳ね返ってきます。

ー僕の作る演劇にどれだけ『体の言葉』が込められているだろうかー

観客席に座った子供たちは、みんな『体の言葉』を持っています。
演劇が子供たちの想像力によって一緒に作られるものだとしたら、『体の言葉』が込められていない作品では、子供たちの想像力を100%引き出せたとはいえないのではないか…子供たちの想像力を100%引き出せていないとしたら、それは児童演劇として不完全なものなのではないか…
脚本だけの話ではありません。演出・演技・人形の動き…

『体の言葉』が、より豊かな児童演劇を作る際の手掛りだ!

これが僕の新たなテーマとなりました。
いや、これは実は児童演劇に限った事ではないかも知れません。

「思考の言葉をこねくり回すことが演劇の成熟」となってしまったことが、演劇か一般社会から置き去りにされてしまった事と深い関係があるような気がしてなりません。新たな発見が新たな疑問を呼んでいきます。でも今日はここまで。

『体の言葉』については、また別の切り口から考えていきます。最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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