劇を観て湧き起こった表現の衝動はどこへ行く? 呼吸のリズムと紐づけて考えると……

「呼吸と同じで出さないと入ってこない」

先週土日にお邪魔した岡崎おやこ劇場さんで聞いた言葉がすっと胸に入ってまだ体を出ていかない。今、子どもたちの演劇体験をもっとダイナミックに振り返る方法はないものかと模索してる最中だから尚更だ。
アウトプットとインプットが表裏一体であることは気がついていたつもりだった。ただそれを呼吸という我々の体が絶えず行っている運動と紐づけて考えたことはなかった。今ボクはここに「留まっている」が、それは吸うことと吐き出すことの変化の調和がボクをここに「留めている」わけで、このバランスが崩れれば、ボクは留まることなく死んでしまう。
これを観劇体験に置き換えてみたらどうなるだろう。
「吸う」ことは劇を観る事。作り手の話を聞く事。バックステージツアーもそうかな。
では「吐く」ことは?
吸うことに比べて圧倒的に少ないんじゃないだろうか。それは観劇後のアウトプットの場だけではない。呼吸が絶えず行われているように、観劇中のアウトプットも本当は絶えず行われているのだ。少なくとも子どもたちは、顔の表情、目線、声、姿勢で出力を続けている。ではそこで吐き出されたものはどこに行くか……
本当は演者が吸い込まなくてはいけない。子どもたちの吐き出したものは全て演者の養分になる。それを今度は演者が吐き出す。それをまた子どもたちが吸い込む。この循環こそ本当の演劇体験。演劇が生モノという秘密は呼吸する我々の体の中にまるごとあるんじゃないか。
ということは、やはり変化なのだ。
我々が、吸い込んだ空気中の酸素をエネルギーに変え二酸化炭素として吐き出し、植物がその二酸化炭素を光合成という営みの中で酸素にまた変えるように、観劇を通して吸い込んだものはその人のフィルターを通して「別のもの」になって吐き出される。その吐き出された別なるものが、また誰かの別なるものになる。
変化していいんだ。いや、むしろ変化するために我々は演劇という営みを見つけ出したのかも知れない。
もしそうだとしたら、今ある演劇は色んなところに矛盾があるなあ。

これは本当に大きな宿題をもらってしまった。ボクはなんでも「そもそもは……」と考えるのが好きだけど、呼吸から考えだしたら何十億年も遡って考えることになる。
しかもその呼吸の名人である子どもたちは、いつも自分の目の前にいるのだ。これだから児童演劇はやめられない。

こちらは、東京きたく子ども劇場さんでの上演中の一コマ。『はれときどきぶた』人形劇団ひとみ座

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