演劇史最初の舞台転換は柱を回すことだった? 演劇史考5

今日は、ギリシャ演劇の舞台装置「ペリアクトイ」を見ていきます。その前に前回のおさらい。ギリシャ演劇は紀元前6世紀頃から記録が残っているようですが、初期において舞台らしい舞台は持っていませんでした。

出典『ギリシャ・ローマの演劇』新関良三著/東京堂1960年51ページ

右手に見える円形のものがオルケストラ。ここでコロス(合唱舞踏団)と俳優が入り乱れて演劇が行われました。
左手に見えるのは神殿。
客席は、丘の傾斜を利用してオルケストラを囲むように作られました。
時代が下るとやがてスケーネー(小舎)と呼ばれる俳優の控室が用意されます。

出典 同じ
神殿とオルケストラの間に長細い建物が立ちました。これがスケーネーです。俳優はここで着替えたり、仮面を付け替えたりしていたそうです。


出典 同じ
スケーネーはだんだん立派になり、ただの控室からオルケストラと相対する建物になります。木造から石造りになると、高さもかなりのものになります。


出典…『図説西洋建築史』彰国社21ページ
ここでは「スカエナ」と記述されていますが「スケーネー」と同じです。
それよりも「プロスケニオン」を見てください。こんにちボク達が「舞台」と呼ぶものと近くなってきましたね。だいたい300年くらいかけて、このように形を変えていったそうです。ここまでがおさらい。

今日は、このギリシャ演劇後期に現れた舞台装置「ペリアクトイ」についてみていきましょう。

ペリアクトイ(回転三角柱)…回転させることによって場面が変わるように三つの側面のそれぞれに場面が描かれた三角柱。
出典『西洋演劇用語辞典』テリー・ボジソン著 鈴木龍一、真正節子、森美栄、佐藤雅子訳/研究出版1996年

これについては、残念ながら図解資料を見つけられませんでした。資料がないことから演劇史の中でも推論の域を出ないようです。

それぞれの面には田園や海岸や雲などの絵が描かれていて観客に場面を教えていたらしい。(中略)しかし、古代の劇場の特徴の中でこのペリアクトイほど論議を呼ぶものはなく、そもそも舞台のどこに置かれたかさえはっきりしていない。
出典『劇場 ー建築・文化史』S・ティドワース著 白川宣力・石川敏男訳/早稲田大学出版部1986年9ページ

引用では省略しましたが、S・ティドワースは、著書の中でペリアクトイは、場面そのもの背景ではなく、登退場先の場面を連想させるために用いたのではないか、とも推察しています。
後に、このペリアクトイが「テラリ」と名前を変え、16世紀イタリアで復活します。その図がこちら。


出典『西洋演劇用語辞典』テリー・ボジソン著

テラリは、客席まで進出して用いられたようです。ギリシャ時代の舞台転換装置が約1900年後のイタリアで形を変え用いられた。なぜこんなに時間があいたのでしょう。これはどうやら中世ヨーロッパでギリシャ文明の再発掘が行われたことと関係があるようです。ペリアクトイに関する記述は、紀元前一年にヴィトルヴィウスが記した書物にあったようなのですがそれが1511年にイタリア語で復刻されたようですね。それを見て当時の演劇人たちが「やってみよう!」となったのでしょう。話は飛びますが、フランシスコ・ザビエルが日本で布教活動をしている時に日本人から「神様がすべてを見てくださっているなら、どうしてこれまで日本に来なかったんですか?」と質問されて、なんとかかんとか受け答えしたあと日記に「若い時にアリストテレスの弁証法を勉強しておいて良かった。」と記したと司馬遼太郎さんが何かの本に書いていましたが、中世ヨーロッパの勢いは、ギリシア文明の再発掘と何か関係があるのかもしれませんね。これはこれでまた勉強することにして…僕がお伝えしたかったのは、

それからさらに約500年後の2016年日本は、びわ湖ホールにペリアクトイが復活したということです。https://twitter.com/tech_biwakohall/status/703111279456616448

これは、調べている途中で見つけました。たぶん本来のペリアクトイとは、大きさも使い方も違うと思いますが、過去のスタイルを勉強して新しい創造に役立てるという姿勢は見習わなければなりません。
皆さんもペリアクトイを使った舞台転換、現代に応用してみてはいかがでしょう。

次回は、もう一つの舞台機構「メーカネー」に触れます。
機械仕掛けの神ですね。ギリシャ演劇史シリーズ、本当は早く「当時の観客」に触れたいのですが、もう少しかかりそうです。ごゆっくりお付き合いいただければ幸いです。

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