子どもは実は答えを求めていないのではないか〜『ガクモンの神様』の客席参加コーナーを作る時に考えたこと〜

脚本・演出として関わった『ガクモンの神様』(劇団仲間作品)が来月長崎県の子ども劇場(佐世保・諫早・長崎)で上演される。また3月には東京多摩市の「ふれあいこどもまつり」にも参加する。先日、長崎の子ども劇場で作品について話をさせてもらう機会を作っていただいたが、今回は本作の大きな挑戦となった「客席参加コーナー」を作る際に考えたことを当時の製作日誌を振り返って考えてみたい。※日誌は脚本執筆前に書いたもので、「ラジオ番組科学電話相談」を物語に導入することを決めた後に書いたもの。

劇団仲間新作日誌(2019年5月4日)

ラジオ番組科学電話相談はボクの大好きな番組だ。
まず子どもたちが可愛い。先生たちがオロオロする様子も優しさに満ちている。知らないことを知ることもできる。あまりラジオに馴染みのないボクでも楽しみにしている番組だ。

しかし、ある時から疑問を持つようになった。電話をかけてきた子が自己紹介をしている時には元気いっぱいなのだが、先生とのやりとりが続くに従って尻つぼみに元気が無くなっていくということである。本来は逆に思える。知らなかったことを知る時、その子の目はキラキラしていくような、そんな気がする。しかし実際には元気がなくなっていくことが多いような気がする。それはなぜだろう。ボクの考えた理由は以下。

·言葉だけでやりとりしなくてはいけないということ

例えば酸素濃度について説明するなら、図なりグラフなりCGを用いて視覚的に説明した方が、目に見えない酸素について子どもは把握しやすくなるだろう。

対して、言葉によって広がるイメージ、という考えもある。ラジオの魅力もそこに尽きる。しかし、それが高学年、中学生ならまだしも低学年、未就学児の場合はどうだろうか。
イメージが広がっていくファンタジックな世界ならまだしも、言葉によって概念を積み上げていくような説明が必要な場合は?

例えば我々は「右」や「左」という概念を当たり前に使いこなしているが、それは成長段階によって獲得した概念だ。現にアマゾンのピダハン族は今でもこの自分を中心として方向を把握する概念を用いずに、川にとって上か下か、というように自然を中心において方向を見るらしい。言葉の力を過信してはいけないのだ。

これは何も本番組がラジオよりテレビの方が向いている、ということではない。ウシという哺乳類について知りたければ、言葉で聞くより、映像で見るより、まずは牛に触れることが大切ではないか、と言いたいのだ。
その子の疑問が「なぜ牛には胃袋が4つもあるのか」ということだったとしても、ただその理由を知るのではなく、実際の牛がどんな風に草を食むのか、その時どんな目をしているか、息遣いをしているか、ヨダレを垂らしているか、時折ボトッボトッと落ちてくるウンチを見て考えなくてはいけない。牛ははるかに子ども達より体の大きな動物である。驚き後ずさりをすることもあるだろう。そしてひょっこり顔を出した仔牛に対しては、自分の方がお兄さん、お姉さんの気分になって積極的に世話をしてやりたくなるかもしれない。これが「牛を知る」ということである。そこにはまず出会いがあるべきだ。五感、自分との関係性、風や匂い、一緒にいた人、全てをひっくるめて子どもたちは自分の中に「牛との出会い」を取り込んでいく…。子どもが本当に何かを学ぶ時には、体験が必要ではないだろうか。
この事は当事者である番組の先生たちが一番そのことをよく分かっているはずだ。しかし、ラジオ番組という性質上どうしても現実的には言葉でやりとりするしかない。…これが番組が抱えている矛盾。

·説明が難しすぎる

これは、教え方の上手い下手の問題ではない。
先生たちは子どもたちの疑問に「科学的に答えなくてはいけない」と考えている。科学者として番組に呼ばれているのだから当然だが、そのことが先生たちの可能性を縛っていないか。

番組の中で5歳の男の子が「ケガをしてお風呂に入るとお湯がしみるのはなぜ?」と質問した。この子はおそらく実際にそういう経験をして、普段自分にとってなんでもないお湯が突然牙を剥いたことが不思議に思えて仕方なかったのだろう。
しかし、先生はこの不思議に正確に答えるためには、「ジュヨウタイ」という言葉を使って痛みのメカニズムから説明しなければならない。それは刺激=痛みではなく、痛みはあくまで脳の中でおこった情報処理の結果であることを説明するためのプロセスだったのだが、「ジュヨウタイ」という単語を使った時点で男の子は返事をしなくなった。先生は「やばい!」と察して、今度は鍵と鍵穴を例に痛みのメカニズムを解説をしようとする。しかし、男の子はまだ鍵も知らなかった。

男の子が一番聞きたかったのは「なんで痛いの?」ということであり、先生の持っている回答の中で、その子にまず示すべきは、「死んでしまわないため」だったと思う。その子からしたら「えー!」となるような大げさな回答だが、そのショックに乗じて「体は生き残るために色んな合図を出します。痛みもそう、お腹すいた〜もそう、喉かわいた〜もそう、疲れた〜もそう」と話してあげれば、その子の経験に言葉を当てはめてあげることができ、お風呂のお湯がしみる理由も納得できたかもしれない。しかし先生は科学者だからその一つ一つのメカニズムについて分かっている限り、正確に説明していくことが身に染み付いている。

一度、「イチョウはなぜ臭いの?」という質問が寄せられた時、先生が「先生の想像だと、恐竜に食べてもらうためだったんじゃないかなあ」と答えた。素晴らしい回答だと思った。自分が質問したことに対して、答えはよくわからないけど、先生はこう考えている、ということを話してくれたのである。自分の身近なイチョウや臭いという体験が、はるか恐竜の時代とつながっていることを感じた時その子はどう思っただろうか。
しかし、この態度は科学的とは言えない。想像の範囲内だからである。この矛盾。この番組は子ども達のための番組である。その子達は、必ずしも「科学的」であることを求めていない。「お月様はどうしてついてくるの?」と質問した時に月と地球の関係を知りたいわけではない。不思議を不思議のまま受け止めて欲しいのである。もっと言えば、不思議を抱いた時の状況をシェアしたがっているのではないか。この番組は、そこまで受け止めてあげることはできない。

先のジュヨウタイの先生は結局アナウンサーから助け舟を出してもらった。しかし先生は、失敗を取り戻そうとしたのだろうか、「PRTV」という単語を伝え「この言葉だけでも覚えておいてもらうと電話をかけてきてくれた意味がある」と言った。これこそ善意の空回りである。先生は、限られた時間の中で小さな子の質問にも分かるように答えを示そうとした。それがその子にとって「役に立つ」という前提で回答に臨んだ。しかし、それがどうにもチグハグする。もしかして子どもは本質的なところでは答えを求めていないのではないか?

·減っていく謎

疑問に対して答えに迫っていく中で子ども達は尻つぼみに元気がなくなる。その理由は、子ども達が「実は答えを求めていない」と考えたら合点がいく。
子どもたちが元気になる瞬間は疑問を持ったその時なのである。生活をしていて「なんで?」と疑問を持つ。そのことについて知りたくなる。答えが分からないので想像をめぐらせる。
この時間こそが子ども達の至福の時なのではないか。それを実はこの番組が奪ってしまっているのである。これは非常に皮肉なことである。子ども達の科学する心を育むための番組が、番組の構成上「子ども達の疑問に答える」としてしまっているために、元気いっぱい質問をしてきてくれた子が「答えを知って疑問の芽を刈り取られてしまう」状態が生まれてしまっているのだ。

もちろん、そうでないやりとりがたくさんあることは重々承知している。一番いいのは、疑問に対して一つの回答を得て、その回答を聞くことによって次の疑問が自分の中にモクモクと立ち上がっていくことだろう。先生達も当然そのことを目指していると思う。

しかし! それにしても今の世の中は謎が少なすぎる。昔は未知の大陸があった。人々はその大陸に向けて好奇心を爆発させた。その時には同時にたくさんの物語が生まれる。科学と物語はわからないものに向けて一緒にスタートするものらしい。
例えば『ロビンソン・クルーソー』や『ガリヴァー旅行記』。新大陸への好奇心から物語が生まれている。しかし未知の大陸はおそらくもうない。謎はやがて海底に向かい、宇宙に向かった。つい先日ブラックホールの撮影に成功したというニュースが飛び込んだ。ブラックホールはまだまだ謎に包まれている。本田マレキ先生はこの番組の中でも今最もホットな先生だが、それは、ブラックホールが子ども達の謎を謎のまま躍動させられる自由が残されている分野の研究者だから、とも言えるのではないか。
人間は「なぜ?」と考える生き物である。しかし、その謎が減っている。その中で子ども達はどうやって想像力を躍動させていくことができるのだろう。

・子どもたちの「なんで?」

ここで、鹿児島県子ども劇場の機関紙「ひっとべ」を開いてみる。そこには子ども達の「なんで?」「どうして?」が丁寧に収録されている。

·なんでちきゅうがあるの?6才

·なんでやきゅうをしている人はお金もちなの?6才

·先生はなんでおこるの?8才

·戦争はやめたのになんでしている国やご飯を食べない子どもたちがいるの?8才

·月はなんで丸くなったり半分になったりするの?

·赤ちゃんはどこから出てくるの?どうしたら赤ちゃんはできるの?

·えんぴつはどうしていろが出るの?7才

·なんで「大人のじじょう」と、子どもにはおしえてくれないの?いっしょの人間なのに…。8才

·大人は子どものおもいでを全部おぼえてないの?8才

·子どもの数はみんなどうしてちがうの?8才

·どうしてごはんをたべて、よるねるとおおきくなるの?4才

·子どもは一生けんめい話しているのに、なんでちょっとしたおもしろいことでわらうの?8才

·なんで人はふとるの?11才

·なぜ人は感情があるの?11才

·だれが月のスイッチをいれるの?だれが太陽のスイッチをいれるの?6才

·だれがきせつをかえるの?6才

いつの時代も子ども達は疑問でいっぱいだ。しかし、生まれた時代によってその疑問がどんどん「すぐに答えられてしまう」のである。謎を謎のまま育む。謎に没頭する時間、その時のワクワク感が今の子ども達は大昔の子どもと違って保証されていないのである。
リンゴが落ちるのを見てニュートンは重力について考えたという。ニュートンが今の子どもならスマホで検索するだろう。すると答えがすぐに見つかる。ニュートンも納得。チャンチャン。しかし! それではニュートンは科学者になれないのである。謎を謎のまま育む時間がおそらくニュートンという科学者を作っていったからだ。(以下略)

主題決定

日誌はこの後、当時発表された新しい学習指導要領について言及していくがその内容は長くなるのでここでは省略する。

とにかくこのようにして本作の主題について考え、「なんで勉強しなくちゃいけないの?」という問いを主軸にすることが決定した。
子どもなら一度は持つであろう勉強への不満を糸口に人間の好奇心や想像力が連鎖していくような作品を目指すことにしたのだ。

それからの創作活動は予想通り何度か大きな壁に当たったが、今では子ども劇場や学校で公演をしている。本作は、「半円形舞台」「YouTubeを扱った作品」「小道具はロープのみ」といった特徴を持っているが、我々にとって1番の挑戦となっているのは「客席参加コーナー」だ。

劇中・劇後の客席参加コーナー

これは、物語としては、主人公(ガクモンの神様の息子)の働く不正に対して主人公の父母(ガクモンの神様)のとった対抗策として出てくるのだが、とにかく、劇中演者は客席の子どもたちの「ふしぎ」を募集する。
そしてその不思議に対して答えを示す事は一切なく、不思議を不思議のまま共有し、最後はその不思議に対する回答を子ども達から募集し答えてもらう。その時に「当たっているかどうか」は一切求めない。不思議にきらめきがあるように、回答にも「こうかも!」という想像のきらめきがある。このきらめきを集めることだけを目的としているのだ。

・実際に集まった不思議

実際の公演ではこんな不思議が集まった。

・1+2ってなに?
・「ばか」ってどういうこと?
・猫ってなんで「ニャー」って鳴くの?
・どうして耳くそや鼻くそがたまるの?
・どうして太陽と月はぐるぐる回ってるの?
・なんで地球ってあるの?
・パンはなんで柔らかいの?
・中国語はなんで漢字ばかりなの?
・なんで遠くにいる友達と実際に会いたくなっちゃうの?
・宇宙の中心ってどこにあるの?
・宇宙っていう存在ってなに?
・犬は自分の意志じゃなくても尻尾を振るのはどうして?
・なんでお父さんのヒゲは伸びるの?
・太陽はどこを恒転しているの?
・なんで「時間」があるの?
・人間はなにから出来ていますか?
・太陽の光が地球に届くのはどのくらいかかる?
・なんでブラックホールはなんでも吸い込めるの?

子どもが不思議を語る時の声は明るい。そして誰かの不思議は別の誰かの不思議を呼ぶ。不思議は連鎖し共鳴するのだ。
私たちは、この共鳴の中に子ども達の元気の秘密が隠されていると考えている。

  • 壁に当たって山に入った時の記事はこちら
  • 『ガクモンの神様』の脚本はこちら
  • 企画の最初に考えた演劇鑑賞教室の意義についてのレポートはこちら

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