『オイディプス王』を読む2/6(演劇史考12)

紀元前430年、アテナのディオニュシア劇場の客席に座ったつもりで『オイディプス王』を読むシリーズ第二回目です。

  1. プロロゴス(序章)  ←前回の記事
  2. 第一エペイソディオン ←今日はここ
  3. 第二エペイソディオン
  4. 第三エペイソディオン
  5. 第四エペイソディオン
  6. エクソドス(終章)

目次

前回の訂正・演劇と映画の違い

オイディプスは、国にはびこる疫病の元凶を断つため先王を殺害した下手人を探し始めました。前回の記事の最後に僕は、「さあ、我らがオイディプスは旅立ちました。」と書きましたがこれは間違いでした。オイディプスは旅立っていません。当時の演劇は基本的に一つの場所(『オイディプス王』の場合は宮殿の前)で行われます。事件究明という行動を描いても、オイディプス自身が動くのではなく、情報を持っている人物たちを「登場させる」ことで劇が進行していくんですね。この辺りが映画と舞台の大きな違いでしょうか。映画は「行動する主人公を追いかける」芸術ですから一本の映画でシーンが100にも200にもなります。演劇でもシーンが自由に飛ぶ作品もありますが、さすがにそこまでは多くならないでしょう。演劇の場合は、「場所に行く」ことよりも「人物と出会う」ことを優先させると言いますか、そっちの方が劇的になるわけですね。『夕鶴』の作者木下順二氏はこの事を「人物が状況をひっさげてくる」という言葉で表現しています。(岩波文庫『マクベス』解説欄参照)
主人公が目的に向かって行動を始めた時につい「旅立ちました!」と定型文のように解説してしまった事は、僕はまだ演劇の力をよく分かっていないという事かも知れません。ちょっと反省…

コロスによる旋舞歌パロドス

さあ、筆者の反省はさておき本題に入りましょう。オイディプスとクレヨンと神官たち(嘆願する市民たち)が退場して舞台が空になるとすぐに第一エペイソディオンに入るのではなく「パロドス」と呼ばれる15人のコロスたちによる旋舞歌が差し込まれます。旋舞歌は正歌と対歌の関係で成り立っています。冒頭はこんな感じ。

(正歌)ピュトンなる黄金ゆたけき社より
(対歌)汝がみ名をさきがけて呼びわれは祈る
(正歌)うましくひびくゼウスのみ声よ、
(対歌)ゼウスが姫み子 聖きアテナよ、

これがあと100行続きます。ええ。長いです。その上意味がよく分かりません。分かるのはゼウスやら、アルテミスやら、アポロンやら神様の名前がたくさん呼ばれる事、そして疫病について触れられている事。ですから本編と関係ないわけではないのですが、むしろこの戯曲を下支えするような祈りに近いのかと思います。これは、文章で呼んでもあまり面白くありません。僕が過去にギリシャ悲劇を読んでいて困ったのはこのコロスの台詞たちでした。でも今はこれが歌であり、踊りであり、市民代表のアマチュア役者の一年に一回の発表の場であることも分かっていますからパロドスは楽しい!
「あ! カドロスおじさん!」
「どこどこ?」
「あそこ、左から三番目。」
「青いスカート」
「ほんとだ。あ、回った。」
「おお~ ばっちり揃ってんじゃん」
てな感じで、知り合いのハレの舞台を応援していたはずですから。それにプロロゴスが俳優対俳優の一対一のやりとりで終えていますから、15人のコロスの大合唱は音圧の意味でも迫力があったでしょう。セリフ→群読&ダンスとしっかり変化があるのです。今まで読み取れなかったこれらの情報を加味すると、パロドスはダイナミックな祈りの場面として立ち上がって来ます。※注1

第一エペイソディオン要約

パロドス終了後、コロスたちはテバイ市民として舞台に残り、そこにオイディプス王が再登場します。まず、これから行われる第一エペイソディオンの流れを大まかに見ていきましょう。

  1. オイディプスは市民に下手人の情報提供を呼びかける。
  2. 預言者テレイシアスの登場。
  3. テレイシアスは、下手人はオイディプス自身である事を告げる。
  4. オイディプスは信じず、これをクレヨンによる国王追放の姦計と断定する。
  5. テレシアスは、オイディプスの素性がこれから明らかになると予言し退場する。

以上です。プロロゴスで設定された主人公の目的に対して、とんでもない答えが飛び出しました。オイディプス自身が下手人であると予言者に名指しされたのです。1500分の133行目で「オイディプスが下手人探しを決意する」と設定された物語の起点を、1500分の353行目で「オイディプス自身が犯人?」と持って行くなんてすごい展開力ですね。そんじょそこらのサスペンス作家ならこのドッキリは、1000行以降に取っておきますよ。でも第一エペイソディオンでいきなり提示してしまうわけですね。

悲劇競演であること

とはいえ、オイディプス伝説については、現代の我々が坂本龍馬を扱った歴史ドラマのラストを知っているように、当時の観客も知っているわけですね。ですから「オイディプスが犯人?」という情報自体にはあまり驚かなかったと思います。ただ、この情報をこんなに早く提示した事は驚きだったでしょう。
「おいおいおいおい。第一エペイソディオンで言っちゃったよ。」
「ソフォクレス、こっからどうもってくの?」
執政官によって任命された客席に座った10人の審査員たちは、こんな事をこぼしていたかも知れません。そうです。ギリシャ悲劇が「コンテスト形式」であった事を忘れてはいけないのです。同じ材料(神話)をどう料理するかを数百年間さんざん競った結果「展開力」「対話力」が磨かれ、それによって「人間へのより深い洞察」が可能にしたのです。

神への挑戦・結果2位

ソフォクレスは、「オイディプスが犯人?」という情報を劇が始まってわずか5分の1で提示してしまう事によって、この物語を「犯人探し」というサスペンスではなく「運命vs個人」というセンセーショナルな問題として展開しようとしています。センセーショナルな、といったのはもちろん当時のギリシャにおいてです。運命とは言い換えれば神の力ですから、運命に抗う事は神への挑戦。「父親殺し・母との姦通者」というオイディプスに突如降りかかった神の神託に対して、オイディプスという個人がどう行動するか、観客がそれを見守る、という図式をソフォクレスは作ってしまったのです。いやあ、これはまずい。だってディオニソス神を祀る儀式の中で、神に挑戦する物語を書いているわけですから。
ここで『オイディプス王』が、悲劇コンテストで何位だったのか、その結論を先に申し上げます。2位です。優勝できなかったんですね。優勝回数24回の猛者が、珍しく優勝を逃した時の作品が『オイディプス王』だったのです。もちろん当時の審査方法は、一人の作家が悲劇3本+サテュロス劇1本を発表して、その総合力で順位が決まったわけですから、『オイディプス王』は評価されたけど、他の作品でつまづいてしまったという可能性も考えられます。ただ『オイディプス王』と一緒に発表されたソフォクレスの作品は現存しませんので詳しくは分かりません。ただ僕はこの「神への挑戦」という図式が神官たちにとっては危険思想と受け取られ、その空気を審査員達が機敏に察知し、評価を落としたのではないかと勘ぐっているわけです。しかし、市民には支持されたようですよ。というのは、ソフォクレス自身はこの芝居をただ『オイディプス』と呼んでいたのですが、そこに「王」をつけて『オイディプス王』と呼んだのは観客たちなのだそうです。

「この作品(『オイディプス王』)は、ディカイアルコスの言うところによればピロクレスにやぶれたということであるが、しかしソポクレスの全作品中、最も傑出しているので、すべての人びとは好んでこれに『王』(テュラノス)という題名をつけて呼んだのである。」岩波文庫『オイディプス王』解説より

これはつまり当時の市民たちの中に「運命は切り開くことが出来るのか」という潜在的な問いかけが芽生えつつあったという事ではないでしょうか。これは『オイディプス王』を考える上で外せない問題ですが、まだ第一エペイソディオンですので深読みはここまでにして「対話」を見ていきましょう。第一エペイソディオンではオイディプスと預言者テイレシアスのばちばちのやりとりがあります。

対話

最初は情報提供者に対して慇懃な態度で接していたオイディプス王が最終的には「くたばってしまえ」と罵るまでの1500分の318から430行までの約100行間。どのように対話が展開したか、いくつかの台詞をピックアップしてみましょう。

オイディプス 「これはまた、いかがいたしたことか。なんと悲しげな様子でやって来たもの。」
テイレシアス 「わしを家へかえしてくだされ。あなたもわしも、つらいさだめに堪えぬくための、それが一番楽な途じゃ、(中略)」321行

最初は、テイレシアスは話したがらないのですね。話したくないテイレシアス、聞きたいオイディプスという「目的の違い」が対話を生んでいます。

テレイシアス 「みんな何も知らぬからじゃ。だがわしはけっして、この不幸な秘密を明かしはしない。あなたの不幸と呼ばぬとすれば、このわしの不幸を。」
オイディプス 「なんと申す?知っていながら言わぬ気か。われらを裏切り、国を滅ぼそうとの所存なのか?」331行

10行の間に、オイディプスの態度が早くも威圧的になっています。「目的の違い」をはっきり作ることによって人物は感情的になり、思わぬ言葉を口走ります。そしてソフォクレスが施したもう一つの仕掛けは、この大預言者を盲目と設定した事です。目の見えない預言者の方が、目が見えているオイディプスよりも物事の本質が良く見えている、という皮肉ですね。そしてラストにオイディプスは自分の目を潰して放浪の旅に出るわけですから、この設定はラストへの伏線にもなっています。伏線! 紀元前からあったんですね。

伏線

 

オイディプス 「よくきけ。この目に狂いがないならば、お前こそはあの事件の企みに加担し、さらには、みずから手こそ下さね、事をなしとげた犯人の一見とみた。もしも盲(めしい)でなかったら、この仕業は全て何もかも、お前一人のものというところだが。」349行

そしてテレシアスからこの物語の第一起点になる言葉が引き出されます。そしてそれに答えるオイディプスとのやりとりの中で、この物語の敵対者は自分自身の中に初めからある「運命」であることが示されます。

テイレシアス 「この地を汚す不浄の罪びと、それはあなたなのだから。」
オイディプス 「これはまた、よくそれだけの暴言を、臆面もなくほざけたもの。その酬いを、いかにしてのがれるつもりでいるのか。
テイレシアス 「のがれる必要は初めからない。わが内に宿る真理こそ、この身を守る力なのだから
オイディプス 「いまのことを、誰から教えられた?占い術からだとは言わせぬぞ。」
テイレシアス 「あなたからじゃ。嫌がるわしを強いたてて、むりに言わせたのはあなただった。」357行

オイディプス自身が破滅の道を自ら歩んでいる。そこから遠ざかろう遠ざかろうとしているはずが、どんどん深みにはまっていく入り口を示唆するセリフがこれですね。もう聡明な王の姿はここになく、オイディプス王はこの預言者の言葉を義理弟クレオンの奸計と勘ぐり、テイレシアスを「くたばれ」と罵ります。そしてテイレシアスを宮廷から追い出して自らも退場してこの第一エペイソディオンは閉じられます。

次回

さあ、次回は第二エペイソディオンへ。次の場面では謀反の疑いをかけられたクレオン、そしていよいよ妻であり、母でもある妃イオカステが登場します。これは観客にとって二つの事を意味します。
一つ目は、第一役者の登場。(注2)
二つ目は、オイディプス、クレオン、イオカステの三人による対話の場面の披露。三人俳優制度を創り出したのはソフォクレスですから、本家本元の1対1対1の対話を見せてもらう事に致しましょう。本日も最後までお読みいただきありがとうございました!

注意書き

  1. 各々の資料ではパロドスが「コロス入場の場」と説明されていますが、それではコロスはまだ舞台に現れていなかったことになります。では、プロロゴスの市民たちは誰が演じていたのでしょう? 『オイディプス王』のト書きでは、市民退場後コロス登場とありますが、これは同一の演者たち、つまり両方コロスたちが演じ分けていたのではないだろうか、という想像のもとにこの記事を書き進めています。例えば最初の「嘆願者」の時は素面、コロスに替わるところで各々観客の前で厳かに仮面を装着し旋舞歌を披露した、というように。
  2. トレポレスモスがイオカステを演じたというのは筆者の想像です。前回の記事 参照

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