−子ども達と火を囲んで昔話−『イノシシと月』創作ノート4

劇団さんぽさんとの新作『イノシシと月』の製作過程の中での気づきを振り返っていくシリーズも第4弾となりました。今日は、山歩きの次に行った共通体験「火を囲んで昔話」について振り返っていきます。

前回の記事の最後でお伝えしたように、新作が「昔話」でいくことはあらかじめ決定していました。でもボクとしては「じゃあ何の話にしましょうか?」ということではなく、「昔話って一体何なのか」ということから始めたいと考えました。

目次

キャンプ場へ

若杉キャンプ場で焚き火。

これもれっきとした稽古。火をつけ、料理をし、みんなで食べて、昔話を語る。その中で何が見えるか。

準備にあたっては色々あったらしいが、無事目標を達成することができた。

3人とも劇場っ子(子ども劇場出身者)だから火をつけるのは慣れっこ。その中では「キャンプは嫌いだった」という、しのっちに火をつけてもらう。千春ちゃんが意地悪な表情を浮かべながらその様子を伺っていたのが印象的。やはり体験を通すと表情が色々と出てくる。

メニューは水炊き。味の方はリナさんが「ちょっと薄い」と言ったように確かに薄味だったが、やはり火を囲んで食べる料理は旨い。子ども達(たいが8歳、ゆうが6歳、りょうが4歳、とい8歳)の4氏も最初は黙っていたものの、水炊きからうどん、最後は松清さんお手製のハヤシライスまでバクバク食べていた。

食事が終わったらみんなで「ゆるぎ岩」まで散歩。真っ暗になった山道を懐中電灯とスマホの明かりだけを頼りに降りていく。ゆるぎ岩を探してタッチするまで。ああ、悔やまれるはその場で懐中電灯をせーので消して闇を体験できなかったことだ。子どもは闇の恐怖を潜在的に求めているはずなのに。

『イノシシと月』製作日誌2020年2月10日
火付けの準備にかかる役者陣。左から千春ちゃん、若ちゃん、しのっち

想像力=闇なのに!

ボクは昔話を始める前の散歩で懐中電灯を消さなかったことを反省しています。それは、想像力やフィクションの起源の一つには「闇への恐怖」があったと思うからです。ボク達類人猿の祖先は、700万年前にチンパンジーと共通の祖先から分かれて樹上生活を止め地上に降りました。それは危険極まりない選択だったはずです。陸上には自分たちの命を脅かす大型の肉食獣が生息しています。特に夜が危ない。霊長類は夜目が効きませんから、ヒョウが闇に乗じて忍び寄ってきたらなす術がない。脳は、闇を「危険なもの」として認識する必要があったでしょう。その時に想像力が発露したのではないか。暗闇は色々なものを想起させます。それは、闇を怖がるメカニズムを作り上げることで命を生き長らえさせてきた人類の知恵なんじゃないか。だから夜のトイレが恐い! あれは想像力の結晶なんです。
想像力が遺伝子レベルで闇そのものと結びついていることはほぼ間違いないと思います。だとしたら、現代人が闇をあまり経験していないという今の状況は一体どういう意味を持つでしょうか? 子どもにとっての影響はどうでしょうか? 闇が世界から消えつつあるのは、電化製品の爆発的普及以後の話なので、せいぜいここ数十年の話でしょう。でも想像力の起源は人類史の起源まで遡れるような話なんですよ。
こう考えると、せっかくキャンプ場で子ども達とドキドキワクワク探検をしたにも関わらず、その場で「電気を消してみる」という遊びを思いつかなかったことは、子どもの想像力に携わる仕事をしている人間として大チョンボ。ても後悔してもしようがない。さあ、昔話の時間です。

火は子どもの表情を変える

昔話を読む

昔話の選定と読み手の順番は役者達に任せました。
1番手…しのっち「舌切り雀」
2番手…千春ちゃん「三枚のお札」
3番手…若ちゃん「かちかち山」

本当は、話をすっかり覚えてもらって語ってもらうのが一番良かったのですが、あくまで遊びのフットワークでやっていることなので、そこまではお願いせず、3人には本を読みながら行ってもらいました。すると、焚き火の明かりでは、本に対して逆光になるし、暗いしで、やっぱりもたつくところが出てきますね。(笑)
また、「火を囲んで昔話」という設定が、「語り部」を連想させてしまったようで、「昔話を語る」という行為を、「昔話を語る語り部を演じる」という風に理解してしまった人もありました。すると、どうしても俳優が落語家を演じる時のような白々しさが漂ってしまいます。でもそれは、「語るとはどういうことか」という共通認識をこれからとっていけばいいので問題ではありません。
ボクは日誌の後半にこんな事を書いています。

うまく話せたかどうかは問題ではない。
火の前で語る、火を囲んで聞くという体験そのものをやってみたかったのだ。
子どもたちは、火を見つめながらじっと聞いていた。僕もずっと火を見つめていた。
途中で気がついたけど、火を見るということは、他の何かを見ることより「被写界深度」が深い。
それは、火に対して50センチくらい奥行きをもってフォーカスをぼんやりと合わせてる感じ。火を見ているとぼーっとできるが、この「ぼー」には、焦点距離をぼんやりさせている、ということも関係しているのかもしれない。

『イノシシと月』製作日誌2020年2月10日

共感力をアップさせる火の力

ここで火の秘密について考えてみます。

ヒトと火の関係は、先程の「想像力の起源」同様、ものすごく長い歴史を持っています。オックスフォード大学で進化心理学を研究するロビン・ダンバー教授(『人類進化の謎を解き明かす』2016年)によれば、ヒトが火を日常的に使いこなすようになったのは約40万年前だそうです。これに対して我々ホモ・サピエンスの歴史は20万年。我々の脳や内臓の器官はこの20万年間基本的に進化をしていないので、我々の脳も体も、「火を使う事を前提に進化した」と言っていいと思います。

前回、ボクは水によって整えられていく人間本来の周波数に言及しましたが、火にもそれと似た力があると思います。
ボクは一昨年、プライベートで妻と甥っ子姪っ子(当時5年生&1年生)を連れてキャンプに行った時、気がついたら5時間火を囲んでおしゃべりをしていたことに気がつきました。家だとなかなかこうはいきません。ご飯を食べてしばらくしたら、テレビを見たり、スマホを見たり、それぞれ別々の行動を取り始めたでしょう。でも火を前にしたら、なんとなくみんな一緒にいた。火を前にすると距離感が縮まり、自然と一緒にいられる。これって何で?
この頃から、ボクは「火と共感力」の関係に興味を持ちます。
演劇は共感の営みなので、火を見ている時の人間の状態について考えることは、演劇の本質について考えることにもなるはずです。

そして今回、火を見ている時は「被写界深度が深い」ということに気がつきました。普段は物を見る時フォーカスを対象物に対してきっちり「面」で合わせますが、火の場合は境界線が曖昧な上に揺らめくのでぼんやり「空間」で捉えます。その時に脳が「ぼーっとしている」ということは、「ぼーっとする」という事と、視覚をぼんやりさせておく、ということは、何か関係があるのかも知れません。

昔話とは何か

ここで昔話とは何か、という事を考えてみます。それも昔話そのものを考えるのではなく、昔話がどのような場において行われていたかということからその意味について考えます。
おそらくそれは、各家庭の団欒の場で行われたことでしょう。時間は昼? 夜?
それはやっぱり想像力が最も発揮される夜に行われたのではないでしょうか。ボク達が行ったのと同じように、まずご飯を食べて、それから囲炉裏の火を囲んで昔話が語られる。揺らめく炎に焦点距離をぼんやりさせながら、闇と背あわせになって想像の世界へ入り混んでいく。その営みの中で個々人の自意識は引っ込み、そこには共感する体がぽつんと残る……。
この状態こそが昔話の本当の意味なんじゃないか。

ボクはこの日の日誌を以下の言葉で結んでいます。

読み終わった後にボクは拍手をし、それにつられてみんなも拍手をしたが、なんだかこの拍手が火や昔話の前では浮ついていたような気がした。

『イノシシと月』製作日誌2020年2月10日

こうして、「今までにない作品づくりが始まっている」という事を胸にボク達は昔話を選ぶ作業に入ることになります。

火に向かう4歳児

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