今回は、山で発見したことの残り2つについて考察します。前回は子どもに視点をおいた気づきに触れましたが、今回はパフォーマー目線での気づきになります。いや、というより都市生活によって人間本来のリズムを失ったボク達現代人としての気づきなのかなあ。ま、とにかくいってみましょう。
残り2つのポイントとはこちらです。
2、立ち止まったのは水のある場所
3、しのっちを見つけるのは難しい
ボク達は、メンバー初顔合わせの1月11日と、立ち稽古初日の4月4日に山に入っています。そして山から帰ってきて感じたことをシェアしました。
稽古場に戻ってきて若ちゃんがこんなことを言いました。
「橋があるところは鳥が鳴いていて木がざわざわしていて気持ちよかった」
面白い感想ですね。ボクは若ちゃんに質問しました。
「鳥はその時鳴いたんだろうか。それとも実はその前からずっと鳴いてて、若ちゃんがそこで初めて気がついたんだろうか?」
若ちゃんは「?」となりました。続けてボクは聞きました。
じゃあ木のざわめきは? 木はその時ざわざわしたんだろうか? それともその前からざわざわしててその時若ちゃんが気がついたんだろうか?
こういうやりとりの中で、ボクたちは改めてこんなことを考え始めます。
橋があったのは、そこに川があるから。そして川があるということは木の生えていない場所があるということだから、そこは風の通り道にもなっている。だから橋のある場所では、音がよく聞こえたのかもしれない。それに風を受けて若ちゃん自身気持ち良くなって、体が開かれた状態になっていたんじゃないか。だから同じ音でもよく入ってきたのかも知れない。
目次
ボク達は水の流れる場所で足を止めていた
今思えば、そこで最初に足を止めたのはリナさんだったような気がします。リナさんは誰よりも先に水の音に体を開き、耳を澄ましていたようでした。水の流れる場所にはだいたい大きな石があります。リナさんは、石の上にしゃがんで水の音を聞き始める。一人がそうすると、他の人も影響されてなんとなく足を止める。そして足を止めると、そこに色々な物があることに気がついて来るのです。気づきの感度は上がり、それに反比例するように口数は減っていく。
ボクはそこで何枚か写真を撮っています。
そこには「共生」がありました。
例えば、この「つる」は、実は巻きついていた樹の方が折れて、つるが折れた樹を宙ぶらりんに持ち上げている状態を撮った写真なんです。そしてその樹からきのこが出てきています。おそらく腐敗を始めたこの樹の中には、ここを住処とする生き物の姿もあるでしょう。こうして死と生がしのぎを削りあっているその横で、木漏れ日を浴びたシダ植物は美しく光り輝き、石は素知らぬ顔で、どてっとそこに存在しています。ただその石も元々そんな姿であったかどうかは分からない。数百年、数千年、数万年の単位で見れば全く別の形があって今の姿になっているのかも知れないし、原子のレベルで見れば、今この瞬間も変化を続けているのかも知れない。そう考えると存在していることが奇跡の瞬間であり、山では、そうしたそれぞれの存在が一つの調和をなして「今」を作り上げている。そこに良し悪しの判定はなく、相手をどうしてやろうという意図もなく、環境に合わせて生き延びようとする命があり、変化を続ける形がある。そしてそのことを見つめているのもあくまでボクという人間の一つの見解に過ぎない。 苔には苔の見解があり、樹には樹の見解がある。蔓にも石にもシダにもそれぞれの見解があり、時間軸があったとしたら、それらによって形成される「世界」とは一体なんだろうか。
読者の方は「なんだこいつ、いきなり語り始めちゃって」とお思いかも知れません。ご安心ください。ボクはこの記事の最後で石を売りつけたりしないので。(笑)
ボクが皆さんにお伝えしたいのは、ボクはこういうことを「ぼ〜っとしながら考えた」ということなんです。そしてそこに水があったということ。これを逆から辿っていただきたい。
水がある場所では、人はぼ〜っとすることが出来る。そしてぼ〜っとしていると、普段よりもっと深いところで思考を巡らせることができる。それって一体なぜですか?
ボクは後でリナさんに「水の音が好きなんですね」と声をかけました。
リナさんは「なんでですかね。やっぱり水は命に直結するからかなあ」と独り言のように答えました。
これらの発見が『イノシシと月』の中に取り入れられました。
『イノシシと月』冒頭場面
舞台は円形。その中から3カ所、円の外側に向かって道が伸びていて、語り手の居場所がある。
語り手三人、竹楽器でリズムを取り始める。リズムのハーモニー。
その中で三人は、山の景色や音そのものになり円形舞台に躍り出る。
これは、物語が語り出される前の場面ですね。まだイノシシも月も登場していません。
ボクは物語を始める前に、山の景色をまずそこに作ることが大切だと思いました。俳優達は自分たちが自分の体を使って山で発見してきた、苔や樹や石や風や水そのものになります。物語を通して子ども達に何かを伝えよう、なんてそんな考えは脇に置いて、とにかく自分が山の景色そのものになっちゃう。大切なのは答えを提示することではなく、ボク達が水の前にいた時のような開いた状態になってもらうこと。そして実はそれは、アニミズム期を生きる子どもたちにとってとても自然なことだと思うんです。
もう一つ、この物語の中での大切な場面は、水の流れる場所に設定しました。それが「湧水の広場」です。『イノシシと月』は、福岡の昔話に材をとったオリジナルストーリーですが、主人公の目指す場所を「湧水の広場」と設定しています。もちろん舞台に本水は出しません。湧き出る水の音は竹楽器によって表現されます。その中に命に直結する水の力や、水を前にした時の人間本来のリズムを体現できるか、そういう闘いをしています。
こう書いていて、ボクは俳優達になんて無茶な要求をしているんだ、と改めて思ってきました。でも頭の半分では「でもそれこそ俳優本来の仕事なんじゃないか」とも思ってる。ウーン、身勝手!(笑)
でも身勝手になれるのは勝算がゼロではないからですね。それは山に入った時にこんなことがあったからです。
しのっちを探すのは難しい
今から一枚の写真を載せます。その中にしのっちが写ってますから見つけてみてください。はいどうぞ!
見つけられました?
まあ、この写真ではセンターにしのっちを捉えてますので、割と簡単だったと思います。でも実際に一緒に山を歩くとしのっちはすぐに山にまぎれてしまってどこにいるのか分からなくなる。これって多分その時のしのっちの周波数が山と溶け合っているからだと思うんです。それはボク達がさっき水の近くで自分自身を開いていった時と同じ感覚でしょう。ボクなんかは水があって初めてその状態になれるんですが、しのっちは山に入ったら最初からそうなっちゃう。
ということは、この状態を稽古場で再現できたら、人が見ている前でも山の景色になれるんじゃないかと思うんです。
優れた演奏家は演奏の中に景色を持っているものですが、それはその景色を見た時の自分自身の周波数を、演奏する場所に持ち込むことが出来る、もしくは演奏を通して自分をその周波数にチューニングすることが出来る、と言い直すことができます。
俳優も基本は同じ。物語る時には、まず自分自身の周波数を山歩きの時の周波数に整えればいい。また、物語ることでチューニングを整えていけばいい。
子どもたちはそのチャンネルを大人よりはっきり持っています。こちらがその周波数を少しでも出せば、すぐにチャンネルを合わせてくれるはずです。その時、その場所でどんな発見が起こるか、今山を歩き、その中で発見したことを子どもたちの前で再現するということは、都市生活の周波数に溢れる現代社会にとって、とても意味のあることなのじゃないかと思っています。それが出来ればですけどね。(自戒!)
そしてボク達はその物語に「昔話」を選びました。いや、ぶっちゃけますと先に制作的な理由で昔話ということは決まっていたのですが、それも根本的なことから問い直して昔話を選び直すために、子どもたちと一緒に「火を囲んで昔話を語る」という共通体験をしました。
そこにどんな発見があったか、次回はそんなことを振り返ってみたいと思います。昔話の世界は深いですよ〜