古代ギリシャの職業俳優「ヒポクリテス」について 演劇史考10

演劇史考シリーズも10まで来ました。マニアックな内容ながらお付き合いいただいている皆さま、ありがとうございます。ギリシャ悲劇シリーズもラストスパートです。
さて、昨日の記事では、「三人俳優+コロス(合唱隊)」という編成によって、ギリシャ悲劇のスタイルが完成した、というところまで見てきました。この三人の俳優は、コロスと分けて特別に「ヒポクリテス(原意 答える者)」と呼ばれたそうです。今日は、古代ギリシャ演劇の俳優「ヒポクリテス」について勉強しましょう。

目次

ヒポクリテス

出演料は国家負担

2500年前のアテナにおいて演劇祭は、国家行事です。入場料は無料。運営費は国家と一部富裕層が負担しました。その内、市民(成人男子)が務めたコロス集団に生ずる諸経費(稽古費、食費、衣装代など)は、富裕層の負担です。反対に専門俳優ヒポクリテスにかかる費用は、国家が負担しました。

ヒポクリテスは、こんな大きな仮面を被って、

※写真 仮面の制作風景
『世界演劇史』 カール・マンツィウス 著 飯塚友一郎 訳 平凡社 1925年より

 


こんな重たそうな衣装を着て、高靴(コトルノス)を履いて、1万数千人の観客を相手に、生声で台詞を語り、身振り手振りを交えながら、舞い踊ったのですから、プロ中のプロ。当時の市民にとってヒポクリテスは、憧れの的だったのではないでしょうか。

※写真 上記資料と同じ

 

特別待遇

ヒポクリテスは、当時市民の義務であった兵役も免除。また、戦争中でも他国を自由に行き来できるよう特別な手形を持ち、各国を巡業していたようです。楽師・仮面製作者などを含んだ組合まで作っていたそうですから恐れ入りますね。このように独立した職業としての地位を確立するに至った経緯としては、「作家が俳優を兼ねる慣習がなくなった」事が影響したようです。前回の記事の最後に、俳優としては落ちこぼれだったソフォクレスについて触れましたが、ソフォクレスが俳優をあきらめた事によって、作家が俳優を兼ねる習わしがなくなったそうですから、ある意味ソフォクレスが俳優という職業の形成に果たした役割は大きいわけですね。

ランク分け

ヒポクリテスには「ランク」がありました。

第一役者・・・プロタゴニスト(protagonist)
第二役者・・・ドウテラゴニスト(deuteragonist)
第三役者・・・トリタゴニスト(tritagonist)

このうち、悲劇大祭のコンテストの対象となるのは、第一役者のプロタゴニストだけですから、三人俳優体制は、対等な関係ではなかったようですね。以下『世界演劇史』 カール・マンツィウス 著 飯塚友一郎 訳 平凡社1925年 245P から文章を引用します。

第一役者について

ギリシャ劇では、おおむね、ただ一人の中心人物に興味が集中されていて、その中心人物はプロメシオスやエレクトラやヘラクレスの如く、自ら全体のアクションの中心となり、他の者達をその影に回してしまっている。そして、これらの中心人物は常に第一役者に振り当てられたので、いつも第一役者が戯曲を実際上背負って立ったわけである。

第二役者について

第二役者は、すでに言う如く、脇役を演じたものであるが、、しかし往々にしてすこぶる重要な役であった。(中略)実際、第二役者の仕事は、技術に優れて、しかも才知の効く人間を必要としたもので、いわゆる馬の脚役者なぞには到底こなし得なかったのである。

第三役者について

ところが第三役者になると、これは大したものとは考えられなかったらしい。尊厳な王者とか、熱情のない使者と、これに類して、情緒を大して強調する必要のない役を演じたのであって、単に音声が良く、押し出しが立派で、吟誦(ぎんしょう)が無難ならば、それで足りるのであった。その他の役で、溌剌たる演技を必要とし、その役者が舞台に止まっている限りは、興味を左右せねばならぬと言うような役柄は、第三役者には委ねられないで、第一役者に持っていかれた。

うーん、これだけ見ると第三役者の使い方が非常にもったいないように感じられますね。今日(こんにち)の感覚では、ここに一番の熟練者を配置して、芝居に幅をもたせそうなものですが… まあ、当時は俳優が仮面と衣装をとっかえひっかえすべての登場人物を演じ分けたのですから、第一俳優が歌舞伎興行よろしく「早替わり相務し申し候」と耳目を集めたのかも知れません。演劇祭の俳優コンテストも審査対象は、第一俳優だけで、第二俳優、第三俳優は蚊帳の外だったそうです。

宛書きとキャスティング

とにかく第一役者の人気・権限は相当強かったようです。ギリシャ悲劇を大成させた三大詩人たちも、決まった俳優と仕事をしていたようで、その記録が残っています。

アイスキュロス → クレアンデロスとミュンニスコス
ソフォクレス  → トレポレモス
エウリピデス  → ケピソポン

これは、「ギリシャ悲劇の名作は宛書きによって生まれた」ことを意味しますね。ふむふむ。こっちは大変参考になります。ただ、紀元前四世紀中頃(三大詩人の時代から約100年後)からは、作家にどの第一役者をあてがうか、ということを国(執政官)が決めるようになったそうです。第二役者、第三役者については、第一役者が選定したそうですから、自分のやりやすい相手をつけていたのでしょうね。この頃から作家と俳優の関係にも変化が生まれて来たようです。

作家と俳優の関係の変化

作家がその全ての戯曲に対して最上の俳優を使った、ということは、むしろ作家のためには名誉にならないことであった。第四世紀の中葉に於いては、それぞれの第一俳優はそれぞれの作家のひとつの悲劇作品にしか出演してはならない、という処置も行われた。同世紀の終わり頃には、俳優の演技そのものが、観客から作品の内容とは独立して、鑑賞される傾向が著しくなった。作品内容よりは俳優の演技が重要視されるのであり、それだけに、俳優は次第に作家に対して独立的なる地歩を占めるようになった。俳優というひとつの階級が自身で存在を固め始めたのである。『世界演劇史』 カール・マンツィウス 著 飯塚友一郎 訳 平凡社1925年 558Pより

「ちょっと協力しましょうよ~」と言いたくなりますが、これ、イエス・キリストより前の時代の話なんですよね。非常に人間臭いといいますか、なんといいますか。「ちょっ、セリフ勝手に変えないでくださいよ」「だってこっちの方が面白いし」って、今と変わらない作家と役者のやりとりが聞こえてきそうです。
では、続いて演技術を見ていきましょう。

演技術

1、声色

俳優も合唱団もみんな男性だけで編成されていますが、女性を演じる際に「声色」を使ったという記録はないそうです。

2、声質

声の高さで役者が分かれていたのではないかと言われています。
第一役者がテナー。
第二俳優がバリトン。
第三俳優がベース。

3、声量

何よりもの注文は、生来張りの強い、しかも良く鍛えられた音声であった。あの広大な劇場が音響上には驚くべき好条件を備えていることが立証され、約三万人くらいの聴衆に話しかけることは大したことではなかったとは言え、又仮面の漏斗形の口が恐らく音声を拡大したであろうとはいえ、(中略)一般には極く緩漫(かんまん)な語り口を必要とした。『世界演劇史』 カール・マンツィウス 著 飯塚友一郎 訳 平凡社1925年 265P

4、三つの語り口

緩慢な語り口は以下の三つの方式を持っていたようです。
1、普通の朗誦(レシテーション)・・・音楽の伴奏無しで話す言葉、ただし身ごなしの助けを借りる。
2、唱歌・・・横笛または竪琴の伴奏で、舞踏の助けを借りる。
3、パラカタロゲと呼ばれるメロドラマ風な朗誦・・・これは韻律的な吟誦から成り立ち、横笛と身振り、時にはまた舞踏の助けをも借りる。

5、豊かな手の動き

俳優の顔は仮面で見えないので、表情の変化は豊かな手の動きによって補われたようです。

6、訓練方法

俳優は一般に朝早く食事前に音声の実習を行った。食事の直後は声の柔軟性が減退するからである。自分の音声を充分に統制しようと思う者にとっては、飲食の節制が必要と考えられたし、あるものは、性的の禁戒を忠告した。(中略)

音声を訓練する専門の教師も見出される。かかる教師は「フェナスコス」と呼ばれ、演出の純音楽的部分を受け持って、舞台に現れて指揮者の役を勤め、特殊な楽器「フィナスキコン・オルガノン」で、調子を示し、拍子を取った。
『世界演劇史』 カール・マンツィウス 著 飯塚友一郎 訳 平凡社1925年 より

結び

いかがでしたでしょうか。当時の俳優の人となりが、この中から垣間見えるような気がしませんか? テスピスの事を調べていた時は、能楽師のようなイメージがありましたが、この記事を書くにあたって頭に浮かんでいたのは、十八代目中村勘三郎さんの姿です。華やかさ、鍛錬、名声、生活、野心、求道心。それらが渾然一体となって舞台に上がる一人のプロの役者の姿を二千数百年前のギリシャの舞台に見ています。
さあ、準備は整いました。これで当時のギリシャ悲劇について、客席の雰囲気・舞台の形・用いられた装置・そして俳優システムについて想像を巡らせる事が出来ます。次回は、いよいよ戯曲を読んでいきましょう。教材は『オイディプス王』です。本日も最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。

おまけ

本文には載せませんでしたが、「三人俳優+コロス」には、例外もあったようです。以下引用します。

各詩人(劇作家)は国家の支出で三人の俳優をあてがはれたので、自分の思ふやうにその三人を雇ふことは詩人の自由であつた。そして、それ以上に欲しいと思ふ場合には、恐らく詩人が自分で雇ふか、あるいは合唱団(コロス)係が合唱団と一緒に用意したものであろう。所でさういふ下級出演者が「ヒポクリテス」と呼ばれたかどうかは別として、実際としては俳優の役を勤めたのである。従つて、ギリシャ劇は決して三人以上の俳優によつて演じられなかつたと主張することは、誤解に陥る因である。(中略)
そこで、最も無難な仮定は、専門的に訓練され、国家の俸給を受ける高級俳優と、並びに多分「ヒポクリテス」と呼ばれない下級俳優とが、共に存在したといふことである。この下級俳優は、国家から俸給を受けもしなければ任命されもせず、演出の実際上の支配人たる合唱団係に抱えられ若し給料を貰つたとすれば其所からである。『世界演劇史 第一巻』カール・マンツィウス著 飯塚友一郎訳 平凡社 1925年 241P
何事も整然と捉えてはいけませんね。

写真は、上記資料より 「俳優の生活・楽屋で扮装する所」

こちらも。劇場は女人禁制と聞いていましたが…「追っかけてるじゃないか!」

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