「荒れる成人式」を縄文人の視点で見つめ直す

新作の準備で縄文の人々の生活について思いを巡らしている。その中で図らずも「荒れる成人式」の原因が垣間見えた思いがした。縄文人の視点で見れば、おかしなのは、暴れる彼らではなく、大人しすぎる成人式の方なのかもしれない。

目次

資料

『縄文の音』土取利行著 青土社 1999年

本書は、パーカショニストである著者が縄文土器を実践的な楽器として捉え直し、演奏を通して有史以前の人々の生活に思いを巡らせながら、その中で得た気づきを考古学や文化人類学の知見とつぶさに照らし合わせ、新たな縄文像を浮かび上がらせる内容となっている。

その中に有史以前の成人式について語る一説があった。

この時から少年は母とこれまでの親子の関係を断ち切り、一人の人間として自立し、大人の行動の型や、技術と慣例(制度)を習得するだけでなく、そこで一族の聖なる神話と伝承、神々の名や、神々の働きについての物語を学ぶ。そして彼は、部族と超自然との間の神秘的な関係や祖先についての一部始終を聞かされるわけであるが、同時に何日も森に入って断食状態で孤独に耐えたり、獣や大人たちからの襲撃を受けたりと、「ほとんどふるえあがるほどの恐ろしい」体験を通して、完全に「別人」になるのである。

『縄文の音』土取利行 142Pより

「ふるえあがるほどの恐ろしい体験」とは凄まじい成人式ではないか。

注目したいのは、「何日も森に入って断食状態で孤独に耐える」「獣や大人からの襲撃をうける」というように、当時の成人式が体験的なイベントであることだ。

では、今の成人式はどうであろう?

試しにGoogleで検索すると、ある自治体の公式サイトにこのような成人式の進行表が掲載されていた。

式次第

  1. 開式宣言
  2. 成人宣言
  3. 主催者紹介
  4. 祝辞 市長
  5. 実行委員長挨拶
  6. 閉式宣言
  7. 実行委員によるアトラクション企画

成人式は日本政府が執り行っているわけではなく、地方公共団体それぞれが開催しているので、自治体によって内容は多少異なるだろうが概ねこのようなものだろう。

おそらく会の個性を発揮できるのは最後の「実行委員によるアトラクション企画」だが、上自治体が2018年度に行った内容は、

  • SNSパネル撮影コーナー
  • 「サクラ咲ケ」ミュージックビデオ
  • 「頑張っている20歳」ドキュメンタリービデオ
  • 〇〇高校吹奏楽部の演奏

であり、成人式というイベントの最中、新成人達がずっと「座ったままの姿勢」であったことは注目すべき点である。

現代の成人式は、「ふるえあがるほどの恐ろしい体験」とは程遠いイベントなのである。

しかし、この様子を縄文人たちが見たらなんと言うだろう?

「こんな甘っちょろい儀式でこれからの社会を担う若者たちを本気で一人前の大人として迎え入れるつもりなのか? だいたい主役であるはずの若者達が椅子に座って主役になってないじゃないか! 誰だ? こんな馬鹿な儀式を考えついた奴は!」

縄文人はたちまち主催者を探して文句を言い始めるだろう。しかし、主催者は「教育委員会生涯学習課」の公務員である。そんなこと言われたって「例年通りです」としか答えようがない。

その時、ド派手な衣装に身をくるんだ一部の新成人達が椅子を蹴って立ち上がった。彼らはゾロゾロと壇上に上がり、祝辞を述べている最中の市長を取り囲んで演台から引きずり下ろそうとし始めた。

「いるじゃないか! 骨のある若者が!」

縄文人は感心したが、それも束の間、若者達は教育委員会が手配した警備員達によって取り押さえられてしまった。この事は夕方のニュースとして全国放送され、テロップには「荒れる成人式」という決まり文句が添えられた。誰もが問題を起こした新成人を糾弾したが、ただ一人縄文人だけが、

「あいつらは本物の成人式がしたかっただけなんだ」

と呟いた。

式の進行は俳優の仕事?

以上、この本を読みながら私が一瞬見た景色を書いた。

これでは、教育委員会の人達に申し訳ないので、最後はこのことを我々演劇人の問題として引き寄せて捉え直してみたい。そもそも、通過儀礼の進行役は俳優の仕事だったかもしれないのである。

……その仲立ちをするのがイニシエーションの司祭者、つまり呪術者である。彼こそは呪文や歌、そして音、踊りなど肉体と精神を極限状態にまで高め聖なる空間を取り仕切るのであるが、自らが常に例の世界と現実の世界を行き交うために、常に死と再生を体現しているいってもよい。

同上 146P

イニシエーションとは通過儀礼のこと

引用文に示されているのはシャーマンの働きに近く、それを現代演劇の俳優の仕事と言い切るには飛躍が過ぎるが、「演劇を体験」と呼ぶからには、成人式で暴れる若者が本来求めていたであろう「ふるえあがるほどの恐ろしい体験」を劇を通して提供しなければならず、それは客席で黙って観ていてもらえればそれでいい、というような大人しい演劇で提供できるわけがない。
呪文とまではいかなくとも、日常とは違う言葉の力、歌、音、踊りが総動員され、演者と観客の身体に共鳴、共振が起こらなければそれは演劇本来の役割とは言えないのではないか。

ちなみに私はこの調べ物を縄文時代のことを題材にした作品をつくるために行っているのではない。今手掛けている題材は「鬼」である。鬼の通過儀礼について考えおり、荒れる成人式で話題になるヤンチャな若者達が、もう少し小さい年齢の時にどんな通過儀礼を求めていたんだろう? と、そんなことを考えている。

※その他アカウントはこちらから 

テキストのコピーはできません。
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。