歌の起源は子守唄!? 〜ゴリラ学者山極寿一さんの言葉から演劇の起源を考える〜

夏フェスも終わり、アウトプットはひと段落がついたので再びインプットの期間へ。昨年は、ギリシャ悲劇について勉強しました。今年は人類学者達の言葉から演劇の本質を連想してみたいと思います。

ギリシャ悲劇を調べていて一番面白かったのはセリフが生まれた瞬間を垣間見たことです。最初の俳優は、神話を物語る集団群舞の中から躍り出て「私は神だ」と言ったといいます。ボクはそのまま神の起源について考えたくなりました。神を祀るために踊りを含めた儀式が生まれたのか、それとも儀式の高揚感の中に人は神を見出したのか…フィクションを職業とするものにとって、神という究極の虚構(あるいは真実)を考えることは、最も根源的でワクワクする問いです。しかし、演劇史の場合これ以上時代を遡ることは難しいことでした。文字のない時代に突入してしまうからです。言葉、歌、踊り、偶像崇拝(人形)、遊び(物真似や見立て)という、文字以前の人間の営みについて歴史は解明してくれません。しかし、だからこそ演劇は面白いとも言えます。「文字」や「映像」という、今世界を支配しているツールでは決して解明できない人間の本質に、演劇は時代を飛び越えて直接アクセスすることが出来るからです。その中でも児童演劇はとりわけ太いパイプを持っていると思います。なぜなら子ども達は、文字という概念ではなく、言葉、歌、踊り、人形、遊びの世界を今まさに生きている人たちだからです。

ですから我々は作品の中に…と言いますか、演ずる俳優の体の中に「なぜ人は歌うのか」「なぜ語るのか」「なぜ踊るのか」「なぜ人形を使うのか」という本質的な問いを持っていなければならないと思います。「この場面でなぜ歌うのか」じゃないんですよ。「なぜ人は歌うのか」です。それも理屈ではなく身体として。技術を超えた行為の発端として。

とても難しいことです。でもそのことを考えないことには「上手いだけで感動しない歌」「機械に加工された偽物の声」「演出家や作曲家に萎縮した姿」を露呈してまうことになります。それでは子ども達のダイナミックな世界と深い繋がりを持つことは出来ません。そんな時、ボクはゴリラ研究の第一人者として有名な山極寿一さんの言葉と出会いました。

家族というのは、脳が大きくなり始めた200万年前以降に登場したのだろうと思います。当時、言葉をまだ喋らなかった人間は、音楽の能力を高めたはずです。音楽は恐らく育児というものを通して起こったのだろうと思います。人間のお母さんは赤ちゃんを離して、どこかへ置いたり、他人の手に預けるからです。だから、人間の赤ちゃんは大声で泣く。泣くのは自己主張です。ゴリラの赤ちゃんはずっとお母さんの腕の中にいるから泣く必要がありません。泣き叫ぶ赤ちゃんに、大人達は泣き止ませるために働きかける必要があります。赤ちゃんは言葉をしゃべれませんから、言葉が登場した現在でも言葉の意味が分かりません。語りかけられる音楽的なトーンによって赤ちゃんは安心感を覚えるのです。お母さんに抱かれているような安心を与えるために、恐らく音楽というものが発達したのではないでしょうか。

「〈こころ〉はどこから来て、どこへ行くのか」 196P
2016年 岩波書店より

山極さんは、歌の起源を子守唄とおっしゃいました。もし、泣いている赤ちゃんに歌いかけて、その赤ちゃんが泣き止んでスヤスヤと眠ってくれたらどんなに嬉しいことでしょう。テクニカルな問題に行き詰まっている全ての俳優(歌い手)に知って置いてもらいたい言葉です。

ご覧のように人類学者の研究は歴史を軽々と飛び越して人間の起源に挑戦しています。ボクはその中に演劇(とりわけ児童演劇)の本質が隠されていると思っています。また、現代でも文字の世界に所属しない狩猟採集生活を送っている民族の行為の中にも演劇の起源を考えるヒントはありそうです。山極寿一さんや探検家関野吉晴さんの言葉の中から演劇の起源を連想する旅路をはじめてみます。ご興味のある方はおつきあいくださいませ。

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