演劇と酒の神 ~演劇人の酒好きを歴史的に考える~ 演劇史考2

前回の記事を読んでくださった方から、「演劇の起源にお酒が介在していたのが面白かったです。」とコメントをいただきました。本当にその通りだと思います。今回は、演劇とお酒の関係について、演劇史の点から考えてみたいと思います。

演劇人が酒好きなのは周知の事ですが、ボクもその一人で別段酒に強くもないのに特別な理由がない限り誘ってもらった酒は断りません。明日もあるから軽くね、と言いながら飲み始めますが、軽く終わったためしがない。どの劇団も酒に関する武勇伝(失敗談)のアーカイブスを持っていて、それを引き出し肴にしては、また飲みます。

「この人達はなんでこんなに飲むんだろう」

と、かねがね思っていました。
その疑問に答えてくれたのが、
前回の記事でも少し触れた山形治江氏の著書『ギリシャ演劇大全』。氏はその著作の中で演劇の起源についてこう記しています。※前回も引用した文章です。

ある時、酒に酔った村人達が歌い踊っていると、その中心に立って音頭を取っていたリーダー格の男が群衆から離脱した。彼は集団的熱狂と陶酔の中で自ら神と同化した。集団に対峙した彼に向かって、歌い踊る人々は問いかけた。「おまえはだれだ?」彼は答えた。「私は神だ。」これが演劇誕生の瞬間である。

演劇誕生の瞬間に酒があったというのです。ギリシャ演劇というと有名なのはアリストテレスでしょうか。しかし、彼自身は演劇人ではなく批評家だったようですね。彼の著書『詩学(紀元前367年~323年。正確な年代は不明)』は、演劇について分析した講義ノートあるいはメモだったのではないか、と言われています。

この『詩学』の中には、有名な『オイディプース王(紀元前427年頃)』も題材として出て来ますが、この『オイディプース王』などの作品は、当時の演劇コンクールの入賞作品。その演劇コンクールの名前とは、『大ディオニュシア祭』。山形氏は、著作の中でこの演劇祭について時系列でまとめています。

紀元前534年・・・悲劇コンテストが始まる
紀元前487年・・・喜劇コンテスト加わる
紀元前449年・・・悲劇俳優コンテストが始まる

今から2500年も前に劇作家のコンテストがあったことだけでも驚きなのに、俳優のコンテストもあったのですね。演出家のコンテストがないのは、当時演出家という役職がなかったからですね。古代において演劇は、演出家なしで成立していた事も演劇を考える上でものすごく重要な要素であると思いますが、今日はお酒の話。ここで取り上げたいのは、この演劇祭で祀られる神様ディオニュシアについてです。どんな神様か調べてみました。

ディオニュソスとは、ギリシア神話に登場する豊穣と葡萄酒と酩酊の神。「若いゼウス」の意味。デュオス→ゼウス。オリュンポス12神の一柱に数えられることもある。男。
ー出典『劇場(建築、文化史)』 S・ティドワース著 1986年早稲田大学出版部発行 翻訳 白川宣力、石川敏男ー

演劇の神様は、お酒の神様だったのです。
続いてコトバンク(元の出典は株式会社日立ソリューションズ・クリエイト 世界大百科事典第2版)には、この神様についてこんな説明がされています。

酒一般がそうであるが、それがもたらす酩酊状態が日常の規範や禁忌から人々を解放し情熱的にするため、恍惚状態におちいって神と交感する多くの祭祀でブドウ酒が尊重された。古代ギリシアでは、ブドウおよびブドウ酒の神ディオュソス=バッカスの祭り(ディオニュシア祭)が行われ、酩酊した女たち(バッカイBakchai)が狂乱の果てに野獣をも引き裂いたという。したがってこの神とブドウ酒とは、理性を象徴するアポロンと対照的に、非理性的な英知、霊感および熱狂の象徴になった。

演劇は、元々理性を越えた霊的な儀式に属するものだったのですね。
古代、人が自然界の中でちっぽけな存在でしかなかった時代では、人は今よりも「人に非らざる大きな存在」を身近に感じ、畏れ敬い、酒を飲んで歌い踊り語ることでその存在と交信し生きる力を得ていたのでしょう。自然を切り開き畏れを忘れた現代人の我々には捉えづらい感覚です。
しかし、演劇人にはこのDNAがほんの少し残っているのかもしれません。時折何かにせかされるように飲み続けてしまうのは、そのためではないでしょうか。そう考えると、あの地獄のような二日酔いも演劇史的には正しい行為だと言えるのかも知れません。
・・・はい。それはそれ。これはこれですね。
この記事を書くことになったのは、いただいたコメントもきっかけになっていますが、先日見た電車の中づり広告に対する違和感も手伝っています。

「ワタシは酔わない」。いや、いいんですよ。飲めない日もあるでしょう。酔いたくない日もあるでしょう。お酒がダメで雰囲気だけでもという人もいるでしょう。それはいい。でもボクには、このキャッチコピーが「私は失敗しない!」という悲痛な叫びのように見えてしまったのです。
失敗を恐れ硬直化する大人の社会。
現代社会の合理化も過ぎればちょっと窮屈です。理性とは少し違う人本来の感受性を解放してあげることも時には大切なのではないでしょうか。特定の宗教を持たない人が大多数を占める日本でその力を受け持つのは、祭り? ロックフェス? それとも演劇?

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