脚本は山で書く。秩父の山に逃げた二泊三日ソロキャンプの執筆記2完結編

結局山でも脚本は書けず。ボクは電車に乗っておめおめと帰宅。洗濯しているとふっとアイデアが浮かんできて、そこから一気にあらすじを書き上げた。

今回ほど「努力は報われない」ということを思い知ったことはなかった。絶対書かなければ、とキャンプ地の川のほとりの秩父鉄道が見える場所に、管理人さんから借りてきた机と椅子を並べ、秩父の名水「久那(くな)の不動名水」で珈琲を淹れ、考えられる限り最高の環境で執筆に取り掛かった。でも書けない。

 

 

 

散歩に出て、民家の裏山にある小さな神社を見つけ柄にもなく祈願してみたが何も変わらない。夜は燃える火を見ながらひたすらぼうっとしてみたが、何も出てこない。もちろん「これだ!」と思う瞬間もある。その時はひらめきに任せて書いていくが、2時間もすると筆が止まり脳が停止する。ひらめきは偽物だったのである。

結局二泊三日は、このように過ごした。

 

・4時過ぎ起床。
・火起こし。
・珈琲。
・執筆。(書けず)
・朝食。
・執筆。(書けず)
・散歩。
・火起こし。
・昼食。
・執筆。(書けず)
・昼寝。
・買い出し。
・火起こし。
・珈琲。
・執筆。(書けず)
・火起こし。
・夕食。
・焚き火。
・就寝。

ボクは結局山でも何も書けなかったのである。

しかし不思議なもので、同じ「書けない」でも町の「書けない」と山の「書けない」は違った。町の「書けない」は、陰々滅々としている。時間に追いかけられているようで恐怖感が伴う。顔色の悪さを人から指摘されたこともある。反対に山の「書けない」はあっけらかんとしていた。書けない時間は途方もなく苦しいが、じゃあ飯にするかと火起こしにかかると完全に頭が切り替わり、とにかく火を起こすのに一所懸命になった。(ボクは火起こしが限りなく下手ということもある)
そして、燃える火を見ていると不思議と心が落ち着く。先ほど火を見て「ぼ〜っとした」と書いたが、これは悪い意味ではなく、とても良い状態で「無心」というのに近いかもしれない。普段無心になることはなかなかできない。人はそれを求めて色んな修行をするのだろうが、火は、特に何をすることもなく無心の状態を作ってくれる。人類がいつ火を使うようになったのかということは諸説あるが、オックスフォード大学の進化心理学者ロビン・ダンバーは著書『人類進化の謎を解き明かす』(鍛原多惠子訳)の中で、火を完全に使いこなせるようになったのは、約40万年前と語っている。我々ホモ・サピエンスは20万年前に誕生したので火の利用はその前からあったのだ。加えてこの20万年間、我々の脳の容量は変わっていないそうなので、人間の脳は「火を見る」ことを前提として作られていると言っても過言ではない。焚き火に心が静まるのは当然のことなのだろう。

とまあ、こんなことはたくさん考えた。ついでにもう一つ言うと、エネルギーを摂取するためにはエネルギーを消耗するということも実感した。例えばボクは毎朝必ず珈琲を飲む。湯を沸かすということが必要になるが、コップ一杯分の湯を沸かすために薪3〜4本を使用した。そしてこの薪に火をつけるためにもマッチ、新聞、小枝を使う。それは材料としてのエネルギーであり、これらに火をつけるためにはボクは自分の体と脳を使わなければならない。なんとなくやっていたのでは、いつまでたっても湯は沸点に達しないのである。キャンプ場は川の交差する場所にあり、湿度も相当高かったので、マッチで新聞に火をつけることさえ容易ではなかった。ボクは寝起きが気力・体力ともに最も充実しているタイプの人間だ。自宅の場合、充電100パーセントの状態で珈琲片手に原稿に迎えるが、山では珈琲を準備した時点でバッテリーの容量は85パーセントくらいまで目減りしていた。もちろん手持ちの薪もどんどん減っていく。これが水を湯にするために必要なエネルギーだったのである。町ではこのエネルギーをガスから得ていたので自覚することがなかった。

すると次の疑問が浮かぶ。この珈琲豆はブレンドなのでアフリカや南米や中近東からきているが、この珈琲豆を収穫するために消費されたエネルギーはどれくらいあったのか? それを輸送してブレンドするためにどれだけの熱量を要したのか?
莫大な量のエネルギーを消費してやってきたことは想像に難くないが、ボクはたった200グラム数百円支払うだけでそのエネルギーの恩恵を受けてしまったのである。米も野菜も全てそうだ。肉にいたっては「生き物を殺す」という精神の負荷に手を染めることもなく手に入れしまった。
着ている服も、水を飲んでいるコップも、それらを詰めこんできたバッグも考えてみれば全てエネルギーの塊であり、ボクはそれを自分自身のエネルギーを消費することなく金で買い上げたのである。もちろんその金を手に入れるためには自分のエネルギーを消費しているが、手に入れたエネルギーに見合った消費が行われたとは言い難い。ではそのエネルギーはどこから来たのか。「石油化石燃料」という言葉が頭に浮かぶ。昨年受講した大学の市民講座で「我々が今どういう社会に生きているかという時にみんな民主主義とか色々言いますが、まず石油化石燃料消費社会に生きているということを考えた方がいい」と言われた言葉……

生きる行為に直結した状態で執筆をしてみたくて山にきたのに、山にきたことでかえって自分がいかに地に足がついていないかを思い知らされる。山での二泊三日はそんなことを考える日々だった。悶々と考えたのではない。新聞紙の種火に息をフーフー吐きかけながら「オレやっべえ〜」と、考えたのである。まさにマルシャークの『森は生きている』で女王が学んだことを地でいくような体験がそこにあった。https://blog.amano-jaku.com/2019/03/03/mori-2/

話が遠回りしてしまったが、そんなこともあってか、山での「書けない」には「書けないものは書けないんだから仕方ねえ」という開き直りが存在した。ボクはすっかり日焼けして帰ってきた。書けていないくせに池袋の町を歩く歩幅だけは誰よりも大きかった。そして家でのんびり洗濯をしていたら突然「これだ!」というアイデアが出てきて、新作のあらすじを一気に書き上げたのである。

昔から努力が大切だと教えられてきた。ボク自身、運動神経が悪かったこともあり、バレーボールで人と勝負するために基礎練習に時間を惜しんだことがない。サーブが得意なのは、サーブは1人で練習ができるからである。中高六年間で学んだ事は大きかったが、それは同時に努力への逃げの思考も育んできた。「これだけやったんだから大丈夫」「昨日より今日、今日より明日」それは農耕社会で育まれてきた一つの虚構である。特に創作においては努力という言葉は存在しないのではないか。締め切りに向かって必要なのは日々の積み重ねではなく、ひらめきしかない。厄介なのはひらめきにも偽物のひらめきと本物のひらめきがある事である。その選定は、ぼーっと捉えると分かる。ぼーっとそのことを考えてどんどん想像が広がっていくなら本物。絞り出さなければ出てこないというなら偽物。

ちなみに山籠りをしていたのは2019年7月末の話。それから一ヶ月。すでに脚本は完成している。近日公開予定。

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