先月行ったワークショップ『ものがたりをつくってあそぼう』(かごしま子ども芸術センター伊佐支部さん主催)のことを考えています
このワークは、自分だけの物語を遊び感覚で作ってみるという内容なのですがその日はこんな物語がありました
「ピアノの練習をしているとテレビがついてそこにガイコツが映った。
消しても別の部屋のテレビに映った。
なんとか消すと靴下の中からお金が無限に出てきた。」
これだけでも面白いのですが、その子の筆はノってきてこういう続きになりました
「そこで私はこういう判断をしてしまった。」
もう言い回しが面白いんですが、肝心の判断とは「お金をゲームセンターで全部使うこと」
きっとその子はゲームセンターで思いっきり遊んでみたいと思ったことがあるのでしょう。
現実の世界で叶わないことも物語の中では好きなだけ叶えることができます
でもその子自身、それは心の底ではいけないことだとも思っている。
それが「こういう判断をしてしまった」という言葉に表れた
自己矛盾を抱えているわけですね
それが物語を通すと笑いになります
この物語を聞いてみんなは大笑い
そして笑われた本人も笑っていました
笑いにはいくつもの役割がありますが、その中に「承認」があると思います
誰かが失敗した時に起こる笑いも、本当はその人を馬鹿にしたものではなく、失敗による緊張を緩和するためのものです
ウチの猫は失敗した後爪とぎをします
これは「転位行動」と呼ばれます
転位行動によって失敗してざわついた気持ちを落ち着かせているわけですが、
人間は本人が転位行動をしなくても周りが笑ってあげることで本人の失敗を深刻にせず中和できる不思議な生き物です
「失敗しちゃったね」という、ありのままの承認ですね
先の物語で起こった笑いもこの承認に似ている気がしました
「ゲームセンターで思いっきり遊んでみたい」という気持ちへのありのままの承認
かといって、それはあくまでそういう気持ちを承認しただけであって、その行為自身を承認したわけではありません
(そうでないと笑いになりません)
「いい/わるい」じゃなくて「あるね」という周りの承認も
心の底での自己との対話も
物語というフィクションを通して成立していました
人類は文字を手に入れるよりもはるか昔からフィクションと共に暮らしてきました
そのフィクションの世界で子どもたちと遊ぶことは本当に楽しいことです
参加人数は多くありませんでしたが、その分濃密な時間を過ごすことができました
(他にもいろんなことがありましたし、サポート役の大人の皆さんも一緒に創作してもらいました)
お声かけいただきましてありがとうございました〜
最後に
今回は試しに進行表を「CANVA」で作ってみました
これをみた7歳の男の子が「がっこうみたい」って
ああ、フィクションの本質から離れてしまったと反省
フィクションは遊びだもんね
今度からは資料は作るけど出さないから安心して