最近、自分の活動について人前で話をさせていただく機会が増えた。その時に、本来ならば自分がどういう人生を歩んできてその活動に至ったのか、ということも含めて語ることが大切なのだが、その時間はない。そこでブログに少しずつ綴っておこうと思う。
ボクは小学校3年生の時に先生とケンカをして学校から帰った。
それはたしか3学期の出来事で5時間目の国語の時間だった気がする。当時学校では3色ボールペンが流行っていた。担任のT先生は最前列の子が持っていたそのペンを取ってみんなに言った。
「これはとても便利なボールペンです。赤も青も使えます。」
小3の世界では黒こそ使い道がなかったが、それは確かに便利なものだった。だがボクは12色のボールペンを持っていた。祖父母が九州かどこかのお土産に買ってきてくれた「たあ坊」のボールペン。
3色であれだけ褒められたのだからこれを見せたらどんなことになるか。ボクは意気揚々と先生に言った。
「先生、オレ12色の持っとるよ」
だが、先生の答えはボクの期待した正反対のものだった。
「西上くん、それはしまいなさい」
「なんで?」
「みんなが欲しがる」
制されてしまったことでスイッチが入った。早く言葉を継がないと。
「買えばいいやん」
「買えない人もいます」
口では大人に敵わない。次にボクの口から出た言葉は音程もよく覚えている。
「バッカで〜 バッカで〜」
この間の抜けた遠吠えに30数名いた3年5組の教室は完全に静まり返った。T先生は当時おそらく20代で、気が強く、綺麗な人だった。
「先生に馬鹿という人はいません。帰りなさい」
「え? 帰っていいの? ラッキー」
ボクは後ろのロッカーからこれ見よがしにランドセルを取り出し、それをかるい(宇和島の言葉で「背負う」の意)、教室を出ようとした。T先生はさすがにやばいと思ったのか、
「帰る時は校長先生に言ってから帰りなさい」
と言った。
気丈な先生がなんとか捻り出したブレーキのサインだったと思うがこちらには届かない。
「わかった」と答えて教室を出た。
靴箱のことは覚えていない。無論校長室にも立ち寄らなかった。覚えているのは校門を出た場面だ。当時の小学生は下校時の通学路をいくつか持っているもので、その日の気分で使い分けていた。ボクは3つ持っていた。だがそのどれも校門を出たらまず左に行かなければいけない。だが、その時のボクは右に行った。
右に曲がると国道を渡る信号があり、その先には寄松団地がある。ボクは信号を渡り、無関係な寄松団地を2周した。今思うと時間稼ぎをしていたのだと思う。その日は6時間授業だったから。
結局畑の前を通る道で帰ったのだが、その時、畑の景色を前にした時の感覚をよく覚えている。
いつもの畑が嘘のように見えた。目に見えるもの全てに現実味が無い。
だが、これも今考えるとよく分かるのだが、現実味が無いのは、景色のほうではなく、「この時間、ここにいてはいけない」という自分の意識によるものだった。
母は専業主婦だったので家にいた。「早かったね」と言われたと思うし、「早く終わったんよ」と答えたと思う。
その後、弟と洋間でゲームをしている時、来客があった。T先生が家に来たのだ。玄関で母と何か話していた。ボクはそのことに気づかないフリをしてゲームを続けた。程なくして先生は帰った。その後ボクは母や父から何も言われなかった。
翌日の学校の雰囲気をボクは覚えていない。T先生のことも。ただ掃除の時間S君に、
「昨日にっしん(ボクのあだ名)怒られたやろ?」
と言われた。「怒られてないよ」と返すとS君は驚いて、
「俺なら絶対殴られる」
と言った。「いいなあ」と思った。その方がシンプルだ。
「どんな子どもでしたか?」と聞かれたらまずこのことを思い出す。この時から30年以上が過ぎた。
自分にとってヒリヒリした思い出も不思議なことに今となっては愛しい。
時々、あの時畑の前で立ち止まった当時の自分に出くわす想像をする。何か声をかけるか、黙って抱きしめるか、いや今はウクレレが弾けるから遠くでウクレレを弾いているのが一番いいかも知れない。曲はタレガの『清き流れ』だな。
T先生はこの後結婚してM先生と名前を変えた。
ボクは先生のことが嫌いだったわけではない。むしろ好きだった。ただその表現方法がいつも少しずれていたのだろう。次男坊の不器用さゆえ。
だからボクの記憶では、最初の大人との衝突となっているが、先生の方では耐えに耐えてきた上での爆発だったのかも知れない。
我を振り回して、我に振り回されて生きてきました。