旨い店は雰囲気も含めて旨い。だからボク達はコロナウィルスでイベントを諦めない

食べて遊んで気がついたこと。

今日の昼は、新宿に出たので久しぶりに羊肉をタンドールで焼いてくれる「あの店」へ。

この騒ぎでどうかな……と思いつつ扉を開けたら、12時を前にしてすでに満席。店員のSさん(インド/タミル出身)が「アイセキOKデスカ?」とお客さんに声をかけて回っている。

うん。やっぱり旨い店は、雰囲気も含めて旨い。

いつも思うけど、今日は特にそう思った。やっぱりボク達は、食べ物からだけじゃなくて店の雰囲気とか人の出入りとかそういうところからもエネルギーを摂取している。

一人で食べるより人と食べた方が美味しい。でも今日のボクみたいに一人で来て、ワイワイがやがや食べている人たちの脇で静かに食べていても十分旨い。そこに人がいるって安心感を栄養に変えられる力が、ボク達人間には備わっているらしい。

実は4月から学校に週2で勤めている。学校の先生とは違う立場で子ども達の相談に乗るというのが仕事内容だ。

今回、コロナウィルスの感染拡大防止のための臨時休校が決定してボクはすっかり予定が空くかと思った。ところが管理職から「通常勤務でお願いします」と言われた。子どもがいない学校で相談室だけが開いてるなんてナンセンス。それならと、勤務時間を午前から午後にずらしてもらった。校庭開放の時間に合わせたら、少しでも子ども達と一緒にいられると思ったからだ。予想は的中で子ども達はこんな時でもやいのやいのと集まってくる。一緒にサッカーをしたり猿鬼をしたり、ほぼ3時間ぶっ通しで子ども達と遊んでいる。風の強い日で校庭に旋風が起きた。ボクと先生は背中を向けて耐える姿勢に。ところが3年生の男の子は突然「ウオー」と叫んで旋風の中に飛び込んでいった。

外で遊ぶ事と、人と一緒にいる事。

どちらも元気でいるための大切な営みだ。つまりこれは「健康への配慮」だ。

厄介なのは、ウィルスへの対策も全て「健康への配慮」であること。今この二つの配慮が抵触している。

外で遊ぶことや人と集まることが「感染を拡大させる恐れがある」と睨まれているのだ。

遊ぶことはまだ理解を得られやすい。

体を動かして汗をかく事、太陽の光に当たる事が健康に直結していることは誰だってイメージがしやすい。

しかし、「人と一緒にいる事」も同じく健康の維持にとってすこぶる重要であることを意識している人は少ないのではないか。

その証拠に、舞台芸術をはじめとするイベントは軒並み中止に追い込まれている。

その中には「無観客で行って映像配信すればいい」という意見もあった。

これは舞台芸術とは何かということを勘違いした意見である。舞台芸術とは表現者と観衆の身体感覚を同期させることによって初めて成り立つ営みである。

我々は、多くの作品で物語という形をとるが、それは物語を通して身体感覚を同期させた時に、普段では思いもつかないことが表現者と観衆の間に立ち上がることを知っているからそうしているわけで、決して物語というパックにメッセージを詰めて観客に届けているわけではない。

身体感覚の同期などというと難しく聞こえるが、人とやりとりをするときにメールよりも電話の方が、電話よりも実際に会った方が話が早く済むということから考えると分かりやすい。

このことはつまり、我々が言葉そのものよりも、声の音や間、視線やジェスチャーの中にこそ豊かな内容を内包できる、ということだ。考えてみれば当然のことだ。人間は進化の過程で文字よりも言葉を、言葉よりも身体表現を長期間コミュニケーションツールとして使ってきたのだから。

そして舞台芸術という営みは、太古の昔からあった。

というよりも、人間は歌や踊りや物語という舞台芸術を獲得する事で人間になったのだ。

このことを指摘したのは、オックスフォード大学のロビン・ダンバー教授(進化心理学者)である。

氏は著書『人類進化の謎を解き明かす』(鍛原多惠子訳/2016年)の中で、時間収支という観点から、人類が群れを維持するために発明したのが笑いである、と言っている。毛づくろいでは実現できない複数への同時コミュニケーションが笑いの起源だというのだ。そして歌はそれよりも多くの人間に作用した。これらの営みは、聞き手の脳内にエンドルフィンを分泌させ、多幸感をもたらした。そして一人よりも複数で行われる時により多くのエンドルフィンが分泌された。つまり、「人と一緒にいる」ということは、人間が人間になるために必要な条件なのである。

このことから分かるように、舞台芸術は単なる娯楽ではない。人間の健康に直結した大切な営みなのである。

劇を介した子どもの一言が会場の空気を換気する瞬間

未知のウィルスから体を守ることは大切なことだ。これに異論を唱える人はいないだろう。

しかし、そのことが他の健康を侵害してはいけない。

イベントの実施とウィルスの感染拡大を防ぐことは時に矛盾することもあるだろうが、必ずしも全てが矛盾するわけではない。地域によって差はあるし、状況は刻一刻と変わっている。全国一斉にことに当たることが本当に人々の健康に真の意味で配慮したことなのかは疑問が残る。

国家は当初「要請」という言葉を使った。事実現段階のそれは「要請」である。

だからボク達は、状況をみながら自分たちの判断でイベントに対する判断を下していい。

判断には地域・団体・個人によって差があっていい。

例えばボクの場合は、自分が脚本・演出という立場で関わった作品の今月末の公演が一部延期・中止になってしまったが、規模を縮小して、予定通り上演するものもある。

この投稿は宣伝ではないので詳細はここには書かないが、そういう判断をしている個人がいること、創造団体があること、そしてそれはこのような考えの元に決断されていることをぜひ知っておいてもらいたいのでこの記事を書いた。

しかし、こんなことを考えていた矢先の3月13日、新型コロナウィルス対策として、新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正案が国会で成立してしまった。今後は、首相が「緊急事態」を宣言をすれば、都道府県単位で知事が「要請」プラス「指示」を発令し、私権を制限することもあるとのこと。

国家という存在を政党に関係なく信用できないボクとしては、まず国家単位ではなく、都道府県単位できちんとこの法律を使って欲しいと思うし、メディアには各知事の判断を比較する事で同調圧力を強めるような報道はして欲しくない。そして自分としては、「集会の自由」も「表現の自由」も「思想の自由」も、これからは政治的な問題ではなく、もっと根本的な健康問題として考えていきたいと思う。人と集まるのも、考えている事をこうやって自由に表現するのも、全て我が健康のためである。

美味しいものを食べて、子どもと遊び、笑うためのものである。

コロナウィルスが健康問題を超えて単に政治利用、経済利用、外交利用されていないかしっかり見極めたい。

古代中国において鬼は最初目に見えなかった。おそらくそれは今回のように伝染病の始まりだったのだろう。そこから角を持つ鬼が生まれた。疑心暗鬼こそ鬼の始まり。これに対抗するのは健康しかない。

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