『子どもを飽きさせないため、という言葉の違和感が解消!』 〜韓国プチョンベイビーフェス。ジャッキーのレクチャーから考えたこと〜

韓国観劇ツアーノート2※Facebookから再掲載

太田昭さん達は昨日台風の中九州経由でなんとか帰国したとのこと。ボクはまだ帰国せずせっかく来たので色々観てから帰ろうと思ってます。
台風のことで家族と連絡を取ったり、知人の安否をFacebookやTwitterで確認したりと落ち着きませんが、心配ばかりしてるわけにもいかないので、今自分がしていることも進めていきます。まずはフェスで感じたことを反芻すること!
というわけで、ジャッキーのレクチャーを聞いて考えたことについて書きます。
その前にフェスについての概要を少し書いておきます。

目次

【フェスについて】

タイトル…「アジャンアジャン音楽広場」
※アジャンアジャンは日本語でよちよちの意味だと思います
期間…10月9日〜11日までの三日間。
主催…富川市文化財団。
対象年齢…8〜23ヶ月の赤ちゃんとその保護者
1作品のチケット代…5000ウォン(約500円)
内容…4つのパフォーマンス、1つのレクチャー、家族写真を撮るというイベントもあり。
※その内ジャッキーが直接関係しているのはジャッキーが演出を担当した作品(クラシックコンサート)とレクチャーとのこと。あとは参加しているアーティストに別途レクチャーを行ったり、フェス自体のことで色々相談を受けたりしていたようです。
※このフェスは記念すべき第一回目。と言っても富川市は今回のフェスとは別に、本来8月に子ども向けの大きなフェスを行っているそうです。今回のフェスはその中から独立してスタートした形だそうです。これからが楽しみなフェスですね。
※タイトルに「音楽」が入っているのは富川市文化財団の意向とのこと。おそらく赤ちゃん向けのイベントに慣れてない市民にいきなり「赤ちゃんのためのパフォーマンス」と言ってもイメージがつきづらいので、まずは「音楽」から入ったそうです。

【富川市について】

富川と書いてプチョン(Bucheon)と読みます。
ソウルと仁川(インチョン)空港の間に位置する町。ソウルから車で90分くらい。
ジャッキー曰く若いお母さんお父さんが沢山住んでいて、自治体自体が子育てに力を入れているとのこと。スクールゾーンによる道路の速度規制が他の地域よりも多いそう。あと「日本で言ったら豊洲ですね」と言ってましたが、それは豊洲と同じく海を埋め立てて作った町という意味で、デッカイ魚市場とかはありません。笑
漫画やアニメなどの文化に力を入れた町でもあるそうです。

【レクチャーについて】

時間は1時間。
テーマ…「音楽が3歳未満の赤ちゃんの脳の発達に及ぼす影響」
参加者…大人30名弱。赤ちゃん10名ちょっと。
※レクチャーを聞いてそのままジャズコンサートが始まるという構成でした。ジャズコーサートが1時間でしたから計2時間ですね。コンサートが始まる前に楽器セッティングも兼ねて10分ほどの休憩を挟みました。場所の移動はありません。

【赤ちゃんも同行OKなレクチャー】

で、肝心なジャッキーのレクチャーの内容ですが、韓国語でおこなわれたのでほとんど分かりません!笑
幸い一緒に聞いている中にイ・ミヒさんがいらっしゃったので、途中翻訳してもらいながら聴くことはできました。
でも、ずっと翻訳してもらうわけにもいきませんし、ボク達も「インプットじゃ〜」というガツガツした雰囲気にはなっていませんでした。せっかく韓国まで行ったのに? いいんです。いやむしろ言葉の分からないことを楽しめばいい。というわけでボク達はジャッキーのレクチャーの内容より、それを聞いている赤ちゃんやお母さん達の様子を楽しんでいました。そう、ここでボクが一番お伝えしたいのはジャッキーのレクチャーは「赤ちゃんも一緒に聞けた」ということなんです。託児をお願いする必要がない。

添付写真をご覧ください。フラットな座席で赤ちゃんもお母さんも実にリラックスした雰囲気で話を聞いています。
赤ちゃんは好き勝手に動き回り、赤ちゃん同士でやりとりしたり、床の感触を楽しんだり、隙間に隠れたり、突然目の前に現れた白い頭の男性(CAN青芸の新妻さん)を見て硬直したりしていました。笑

好きにしてていいんです。ちょっとくらい泣いてもレクチャーの妨げにはならない。授乳室は部屋の後方にあるのでお母さんは好きな時に利用できます。座席がないので出入りも自由。赤ちゃんの状態に合わせて一回外に出るも、場所を変えてみるも自由。

赤ちゃんはそのリラックスした雰囲気の中で少しずつ活発になっていきます。そしてついにレクチャー中のジャッキーのところに探索に出かけました。普通ならスタッフが冷や冷やする場面ですよね。でもスタッフは動きません。あらかじめ了解を取り合っていたんでしょう。ジャッキーは、ごく自然に赤ちゃんに話しかけ、打ち解け、赤ちゃんが今何をしにここにやってきたのかということをお母さん達に説明していました。「この子は床の感触が場所によって違うことを確認してますね。だから邪魔をしに前に出てきたわけじゃないの。ほら、確認が終わって納得したら自分からお母さんのところに戻っていく」とか「触れて欲しくないものがあったら言葉でダメと言うんじゃなくて自分の体で遮って意思表示してみて。そしたら伝わるから」みたいなそんな感じ。いや、訳してもらったわけじゃないんですけどね。ボクにはそう聞こえました。とにかくこの柔らかい雰囲気がとても素敵でした。ジャッキーが一番伝えたいことはこの会場の雰囲気の中にあったんじゃないかな。

言葉が分からない分、ボクは思考を動かさずに、この中に溶け込んで行くことができました。すると何が起こるか。「思考」じゃない別の脳みそが動き出して色々なことを考え始めます。それは「存在の肯定こそが本当のドラマなんじゃないか」ということなんですが、これについては長くなりそうなのでまた次回へ。
今日は、ミヒさんが訳してくれたジャッキーの言葉の中でビビビと電気が走った言葉について考えます。その言葉とは、

「音楽を聞いていて脳にめざましい反応(変化)が起こるのは32分を過ぎてから」

これ、もしかしたら42分だったかもしれません。でもそれはボクにとっては「誤差」の範囲なんで別にジャッキーに確認とかはしません。ボクがここで考えたいのは、この長さが一般的に普及している楽曲の長さに比べて「圧倒的に長い」ということですから。

※追記:42分でした!

【市場経済の枠に囚われた音楽のイメージ】

まず、ボクがその時に比較対象としてイメージした「一般的な楽曲の長さ」がどれくらいかというと3〜5分くらいです。でも考えてみたらこれってたぶん音楽がメディアを通じて「切り売り」されることを前提に整っていった音楽の長さなんじゃないでしょうか。よく言われることですよね。音楽番組の限られた時間の中でインパクトを与えるためにサビから始まる音楽が主流になったとか、アルバムからシングルで売る時代になって一曲で勝負するようになったとか。

例えが古いかもしれませんが、とにかくボクが音楽の長さをイメージする時に「脳」を前提に置かず、「市場経済」を前提に置いてしまっていたということは間違いありません。
今度は逆にアジアの伝統芸能の音楽などについて考えると、一曲の長さが20分とか30分もあるような長い曲はザラにあります。というか一曲と言う概念があるかも怪しい。続いて演奏されることが前提として作られている曲ばかりだと思いますので。西洋音楽のクラシックも交響曲、組曲、変奏曲など本来長いものが主流です。これらの音楽については、ジャッキーのレクチャーの内容に付合します。これはどういうことでしょうか。当時の音楽家達は音楽が脳に及ぼす影響と時間の関係について、体験的に知っていたということでしょうか。
もちろんただ長くやればいいというわけでなく、「繰り返しをしながら変化していくのが良い」とジャッキーは言っていました。それはつまりジャズだ! ということでレクチャー後は赤ちゃんに向けてジャズのコンサートが開かれたわけです。次の日はジャッキー演出のクラシックコンサートがありましたが、それは「きらきら星変奏曲」をさらにアレンジしたものでした。(なんと編曲もジャッキー!)
ただ、ここではそれらのパフォーマンスについて詳細を語ることは省略します。それより「変化」とは具体的に何の変化の事を指しているのか、ということについてもっと考えてみたいのです。その中にビビビと走った電気の正体があるような気がします。

【変化とは音楽の変化のみにあらず】

もちろん変化が音楽のテンポ、リズム、メロディ、音量、音色、響き、音源の場所……など、音楽そのものの変化であることは間違いありません。でもそれだけでは物足りない。というのも、音楽家が奏でる音楽に変化があればそれでいいのか、ということになってしまうからです。「この天邪鬼め、また変なことを言い始めたな」と思うかもしれませんが、もう少しお付き合いください。
ボクには子どもに向けたパフォーマンスについて語る時「あきる」という言葉を使うのが嫌いです。理由は説明できませんが、何か大きな違和感を感じるのです。これは音楽においても演劇においても同じです。ずいぶん前にある演出家と劇作家が作品を作った際に「子どもがあきないように5分に一回何かが起こるように構成した」と言いました。視覚的変化、客席参加、照明変化、音楽イン。あらゆる方法を使って舞台は目まぐるしく展開していきました。そして確かに子ども達はその作品を最後まで集中して観ていました。でも何かが違う。冷たいもの感じてしまって素直に喜べない。それはどうしてか……今、電気の正体が分かりました。ジャッキーの言葉はボクのこの時の違和感に反応していたのです。

つまり、変化は、舞台上の出来事ではなく観客の脳内に起こらなければならない。でもこれはまだ前提の話。
大切なのはその次で、パフォーマー自身も一緒に変化していなければならない。

ボクが昔感じた違和感は、この後者の変化が無かったということに起因していたということが分かりました。観客だけを変化させて、自分は全く変化しない。変化を求めない。その姿勢に「冷たさ」を感じていたのです。
照明の変化に役者自身が変化しなければ、それはただのきっかけであって本当の変化ではありません。
観客の変化を受けて役者自身も変化しなければ、両者が出会ったとは言えません。
出会いがなければそれは演劇(音楽)とは言わない。出会いとは変化の相互作用のことを指している。

こんなことを考えました。
心構えの問題ではなく、瞬間瞬間を捉えた具体的な事象として捉えられる問題だと考えています。

写真はジャッキーのレクチャーの様子

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