首狩り族とハーモニー 〜音楽学者 小泉文夫さんのフィールドワークより〜

首狩り族の音楽を調べていた時に、なぜか首狩りが上手な部族は歌が上手い、首狩りが下手で狩られてばかりいる部族は、歌がまずいということに気がつきました。

「人はなぜ歌をうたうか(小泉文夫フィールドワーク)」より
小泉文夫著作全集1 学習研究社2003年

今日は、首狩り族とハーモニーについて見ていきます。ただ、「首狩り族」という言葉の持つ印象が強すぎますので、そのことについて小泉氏の発言(1980年)をまず皆さんと共有しておきたいと思います。

首狩り族というと一般の人たちは、獰猛で、野蛮で、きっとたくましい人たちだという印象を持ちますけど、ちょうど反対なんですね。首狩り族は厳密にいうと、無頭目社会、つまり政治的な支配力が確立しておらず、部族の長とか王様とか、中央集権的な支配者がいない社会です。(中略)彼らは、獰猛でもなければ、精悍でもなく、荒っぽくも、たくましくもなく、非常に臆病で、センシティブで、デリケートな人たちです。そして自分たちの村の中で外敵からは離れて、本当にひっそりと内輪に暮らしています。もし彼らがもっと外部の、よその民族に接触していたならば、おそらくその民族に征服されてしまったでしょう。というのは、外部の民族はみんなその部族の長、つまり酋長や王様がいて、軍隊を組織して、よその民族を征服したり、攻撃したりすることのできる民族ですから。

これ、5年前のボクが読んだらものすごく意外に思ったかもしれませんが、最近読んでいる本が山極寿一さんや関野吉晴さんの本なので、すんなり受け入れられました。人間が肥大した欲望を持ち、他国を制圧・侵略し始めるのは農耕後のことだということを知ったからです。その原因は、富を蓄えられるようになったことと、土地を所有したことに代表されますが、ボクはそれと同時に文字や数字という概念を獲得したことが人間の「思考力」を鍛えるとともに「欲望」を育てたのではないかと考えています。いや、その二つの恩恵を受けてボクは蛇口をひねれば水が出る、ボタンを押せばウンチが流れる、という文明的な生活を享受しているわけですし、そもそも文字がなければ、こういうことを考えることもできないので、疑問を呈するのはおかしな話なんですが…

とにかく、ボクはこの説明を読んで「ああ。首狩り族の人たちは、ボクよりもはるかに、『分かち合う人たち』なんだろうなあ」と思ったわけです。実際に小泉氏も首狩り族から大変な歓迎をもって受け入れられたと、おっしゃっています。ちなみにここで言われている首狩り族とは、フィリピン・ルソン島北部のイゴロト族や台湾の高砂族のことです。細かくはさらにそこから分類されるようですが、ここでは省略します。

彼らの歌はポリフォニックです。一人がソロで歌うと、後の人がつける。それを全部即興でやるんですけれども、非常に多声的になります。
彼らにとって合唱は、非常に意味が深い。例えば首狩りの一番上手な種族で、ブヌン族というのがいます。(中略)合唱も大変上手です。
彼らは首狩りに行く前に合唱をやります。まず老人がウーッと歌いだすと、他の人たちがウーッといろんな音を出す。それでうまく調和するかどうか聴いているんです。しばらくすると、今度はその老人が違う音を出す。それに対して、また他の人がついていく。ハーモニーがうまくかみ合うかどうかは、一か八かやってみなくてはわからない。やってみて、ハーモニーがきちんと聞こえてくれば、これはみんなの気持ちがあっているんだから首狩りに行こうと。しかし、ハーモニーがちゃんと合わない場合には、首狩りにいっても逆にやられちゃうんですね。向こうだって首狩り族なんですから。

集団が一つになっているかどうかという判断基準に、言葉ではなく歌を採用しているんです。それも狩るか狩られるかという命の瀬戸際でです。これは驚きですが、同時に腑に落ちるところもありました。音楽が言葉よりも心の深いところに作用することを、自分の経験として知っている人は多いはずです。

ゴリラ学者の山極寿一さんは、人類の家族の起源は200万年前とおっしゃいました。「〈こころ〉はどこから来て、どこへ行くのか」 (岩波書店2016年)
力の弱い人類は、子どもを沢山産み育てることで子孫を繋ごうとしました。(年子を産めるヒト科は人間だけ。ゴリラの出産間隔は4年。チンパンジーは5〜7年。オランウータンは7〜9年)子沢山ですから、赤ちゃんをずっと抱いているわけにはいきません。お母さんは赤ちゃんを自分の体から離しました。赤ちゃんは自分の安全を守るために泣くことを覚えました。その赤ちゃんに安心感を与えるために「子守唄」が歌われたというのです。子守唄を歌ったのは母親だけではありませんでした。まわりの大人たちが、男も含めてみんなで赤ちゃんをあやしたのです。微笑みも同じく。歌や表情を介したコミニュケーションは、力の弱い初期人類が生き延びるために生み出した唯一の方法だったと山極さんはおっしゃっています。言葉の誕生は5〜15万年前と言われているので、それよりも遥かに長い期間我々人類は、メロディ、リズム、ハーモニーを伴う歌で交信し合ってきたのです。音楽が言葉よりも深いところに作用するのは当然のことかも知れません。

ボクは昨日、自分の南アフリカの経験と小泉氏の研究を踏まえて日本人にリズム感がないのは、太古の昔に大型動物を捕獲していなかったから、と申し上げましたが、それも頭の半分にはありますけれども、もう半分には、人間は移動に移動を重ねて混ざり合ってきた生き物なのだから、自分の体の中にはアフリカの血もヨーロッパの血もアジアの血も入っていて、ボクにリズム感がなく、ハーモニーが取れないのは、母親のお腹の中にいる時と、出てきてからの後天的な「文化の」影響であって気にすることはない、と考えています。本当に体の中にリズムやハーモニーへの感覚がなければ、アフリカで聞いた歌で感動したりしないと思うんですよね。でもボクは感動した。ですから、ボクがしなければならないのは、「文化の違い」を認識して、苦手は苦手のまま、その事を隠さないで音楽の本質を捉え直すということだと思います。音楽の本質とは、繋がること。そのためにプロとして何をするか…

うーん…やっぱり一番最初にマイクのスイッチを切りたいな。

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